今日は、官庁の「仕事納め」の日です。明日から、6日間の年末
年始の休みになります。もちろん、継続的な市民サービスが必要な
職場では、年末年始の休み中も公務に携わっています。特に今回は
市町村合併を控えているため、窓口事務や情報システムなどに支障
のないよう担当職員は年末年始休暇を返上して取り組む予定です。
また、合併町村の標識や看板の書き換えも急ピッチで行われており
ます。
豊野町・戸隠村・鬼無里村・大岡村との1月1日の合併まで、あ
と4日となりました。大晦日の夜は、住民の皆さんによるカウント
ダウンイベントが各地で計画されており、新市誕生のムードもいよ
いよ高まってまいりました。
新たに長野市民になられる皆さんが、一日も早く長野市に慣れ親
しんでいただけるよう、私たちは大きな心で歓迎したいと思ってい
ます。
合併により長野市は、約738平方キロメートルという大変広大
な面積になります。全国に誇れる、魅力溢れる豊かな自然と観光ス
ポット、そして、恵まれたスポーツ環境を十分に活用して、市民の
皆さんや各地域が光り輝き、そして、都市と自然が調和する 「多
軸都市ながの」を目指し、来る年の干支である「酉」の如く、皆さ
んと一緒に羽ばたいてまいりたいと思っております。
さて、合併には「民意」の把握が不可欠であります。豊野町・戸
隠村・鬼無里村・大岡村の住民の皆さんも、それぞれの町村の将来
を真剣に考え、長野市との合併を選択したものです。私は編入合併
される側の立場は、哀しさと寂しさ、そして期待が入り混じった複
雑な心境であると思います。長い町村の歴史が終わるわけで、先輩
への申し訳ないという思い、あるいは住民が合併して良かったと思
えるかどうかの不安、そんな思いが複雑に折り重なっているはずで
す。私は長野市との合併に踏み切った町村の閉町式・閉村式に参加
してみて本当に目頭が熱くなりました。そして、その「民意」をし
っかりと受けとめ、新市の舵取りをしっかりやっていかなければな
らないと思っております。
「山口村の越県合併問題について」ですが、皆さんはどう感じて
おられますか?私は、長野市長としてこの件で発言することは、問
題を混乱させるだけと考え、公式発言は控えてきたつもりです。
皆さんのご承知のとおり、知事は、合併議案を9月、そして、
12月の県議会に提出しなかったため、県議会がもめにもめ、遂に、
12月22日、議員提案という形で決定されました。私は、県議会
での山口村の越県合併問題が一区切りついたため、所感を申し上げ
たいと思います。
私は、知事の泰阜村への住所移転問題といい、山口村越県合併問
題といい、どう考えてみても、知事としてあまりにもひどい行動で
あると感じています。
山口村へは私も訪れたことがありますが、素晴らしい場所で、村
民の皆さんが本当に島崎藤村を誇りに思っておられる気持ちが伝わ
ってきて、感心したことを覚えています。
そんな山口村が、長野県から岐阜県に移るという話を聞いたとき、
残念に感じたことは事実です。しかし、山口村の地形は岐阜県中津
川市に向かって開けており、古くから中津川市、坂下町との交流が
深く、経済的にも両市町との関係が深いとのこと、そして昭和33
年に大変な騒動があって、旧神坂村が中津川市に編入合併され、山
口村と引き裂かれたという歴史、加えてテレビも長野県側の放送は
視聴できないといった実態をお聞きすると、生活圏は長野県には無
いのかなあ、ということを感じざるを得ませんでした。
さらに、今回の合併に際し、アンケート調査や投票方式による村
民意向調査を実施し、民主的な手段で、住民の意思を確認してきた
ことで、やむを得ないと思っていました。
知事は当初、この合併については十分理解を示していたと、その
言動から推察できます。そのため、合併推進重点地域のお墨付きを
出してもいたわけです。ところが、合併協議が滞りなく進められ調
印が行われてから、後になって「長野県が溶ける」と合併反対の姿
勢を打ち出し、県民意向調査をするなんて話は、事態を混乱させ、
山口村の民意を踏みにじるものだと思います。
今までに、知事は何をやっていたのか、よく分かりません。県民
の意思を聴くというならいくらでも方法はあったはずで、山口村の
村民の意見をどの程度聴いたのか、理解に苦しみます。法定合併協
議会が終了し、合併の調印が行われてから、県民意向調査をするな
んて話は、民意を無視した言動ではないでしょうか。仮に県民意向
調査で合併反対となったら、どうするのですか?事態を混乱させ、
山口村の民意を踏みにじるだけです。どこかで気が変わってしまっ
たのでしょうが、住民の心をもてあそんでいるとしか、言いようが
ないと私は思います。
山口村の手続きは極めて民主的に行われたと言われています。山
口村は、村議会での議決も行って、万感の思いで知事に書類を提出
したと思います。私は、長野市に編入合併する町村の皆さんと接し、
編入合併される町村の立場がよく理解できます。山口村も編入合併
ですから、調印するまでに当然葛藤があったはずで、知事が、途中
まで合併を認めておいて、途中で気が変わったというのは許せるこ
とではありません。
もちろん、山口村の合併反対派の方々の存在は、心が痛みます。
しかし、住民意向調査で決まった結論ですから、少数意見を大切に
しなくてはいけないとはいえ、議論を尽くした上で最後は多数決で
決めることはやむを得ない選択だと思います
今回の県議会では、最終的に、議員提案という異例な方法で行わ
れ、大差で合併議案が可決されたわけですが、私は、知事の行動こ
そが、結果として、山口村を岐阜県に追いやる世論を作り上げてし
まったと思います。理由は2つあります。
一つは、もし知事が早くから越県合併反対という世論喚起に努め
ていたら、または、山口村が長野県にとどまれる諸施策を提案して
いたら・・・。あるいは最低でも議論をするために、議会に正式に
議案を提出していたら・・・。少なくとも議会はあんなに圧倒的な
差では決まらなかったでしょう。私の周辺にも、馬籠は長野県であ
ってほしいという意見はたくさんあります。議会も世論も、知事の
民主主義への挑戦に対して、団結してしまったということでしょう。
もう一つは、知事の考えが分からず、みんなが振り回された。自
分の心の中を示さないで(例えば議会に対し、議案を提案しないと
は言わないで「葛藤している」という言い方)、みんなが右往左往
していることを楽しんでいる・・・・。密室政治という言葉があり
ますが、これは密“心”政治といえる、まさに形の変わった独裁政
治というべきだと思います。
さて、今後は知事の対応次第となりました。2月13日の合併に
間に合うよう総務省に申請してほしいと思います。山口村、そして、
中津川市や合併予定町村の皆さんが、知事の犠牲になるのは気の毒
です。直ちに総務省に申請することが、せめてもの罪滅ぼしではな
いでしょうか。
私は、泰阜村への住民票の異動問題についても、知事が自分の裁
定の誤りを認めれば問題が収まるわけで、「知事の判断一つで決着
する話」という意味では、山口村の越県合併問題と同じなのかなと
思っています。
2004年12月28日火曜日
合併、そして民意 所感(号外)
2004年12月22日水曜日
2004年を振り返って
年末になりました。今年最後のメールマガジンです。少し長くな
ってしまい恐縮ですが、お付き合いください。
さて、市長に就任して以来、早いもので4年間という任期も残す
ところ10カ月余りとなりました。この3年間、市民生活の充実と
長野市の発展を念頭に置きながら、私なりに懸命に職責を全うして
きたつもりです。また、もんぜんぷら座や市立高等学校のあり方、
浅川治水・泰阜村・住基ネット等々の諸課題の対応に悩む日もあり
ました。特に市長としては市民の皆さんにとって厳しい発言をせざ
るを得なかったこともありますが、その中にあって市政を運営する
ことができたのは、市民の皆さん、議員の皆さんのご理解、ご支持、
そして、共に苦労してくれた職員のおかげであると心から感謝をし
ています。
来年は、4年間の集大成の年として、1町3村との合併で生まれ
る新市のまちづくり、「長野市版都市内分権」の具体的な検討、行
政改革の着実な実行、さらに、直面する福祉、環境、教育などの諸
課題の解決に向けて全力を尽くします。開催が迫っている2005年
スペシャルオリンピックス(SO)冬季世界大会の成功に向けても
全力を挙げてまいります。
また、これらの課題に機敏に対応していくためには、職員一人ひ
とりの意識改革が不可欠と考え、昨年度から人事制度改革に取り組
み、このたび人事評価マニュアルがまとまりました。能力評価と業
績評価を計画的に実施し、行政課題に積極的に挑戦できる職員の育
成に努めてまいります。
今年度のまちづくりアンケートでは、住み良い長野市をつくるた
め、特に力を入れてほしい施策として、
第1位は「高齢者福祉サービスの充実」で、12年連続でトップ
となりました。高齢者が激増している時代、安心して生活できるた
めの方策(セーフティーネット)の重要性を痛感しています。
第2位は「中心市街地の活性化」であり、一昨年7位、昨年5位
から更に上位となりました。中心市街地の衰退に対し、市民が心配
している結果でしょう。
第3位は「子育て支援と子どもが夢を持てる社会」で、3年連続
で第3位です。将来を担う子どもが夢を持てる社会が大切であると
いう点は、すべての人が同意するテーマですし、少子化に歯止めを
かける施策の必要性を感じています。
第4位は「犯罪防止の推進」、今回新しく追加した項目ですが、
いきなり上位になりました。信じられないような凶悪犯罪事件が日
常茶飯事の如く発生し、市民が不安を感じている。防犯は「警察」
の役目と考えていた従来の市行政の取り組みではいけないという警
告かもしれません。
第5位は「生活道路・幹線道路の整備」、毎年上位にランクされ、
各地の市民会議でも常に出されるテーマです。地域社会にとって、
道路の建設・改良・整備は大切であるということでしょう。典型的
な公共事業であり、財政改革の真っ只中、予算的には厳しいものが
あります。
さて本年度、取り組んできたテーマを報告させていただきます。
市行政は総花的ですべての施策・事業が大切なものでありますが、
私は、その中で敢えて次の5項目を今年度の重点課題に据えて、全
力を挙げて取り組んでまいりました。予算額の大きさではなく、数
年以内にきちんと実行しなければならないことを基準に考え、取り
組んできた事柄です。
一つ目は、市町村合併と都市内分権の推進であります。
豊野町・戸隠村・鬼無里村・大岡村との合併につきましては、去
る11月18日、総務大臣による「市町村の廃置分合」の告示があ
り、来る1月1日に長野市と合併することが決定いたしました。
都市内分権につきましては、今年1年間、「調査・研究の内容」
を市民の皆さんにお示しし、説明と議論をしてまいりましたが、こ
の度、いただいたご意見を反映し、長野市としての原案を庁内で決
定し、報告書としてまとめました。来年度早々この「原案」をもとに、
議会の了承を得ながら、市民の代表や市議会議員、学識経験者等で
構成する都市内分権の審議会を設置し、市民の視点に立った議論を
していただき、長野市にふさわしい都市内分権の具体的な内容を検
討していただこうと考えております。
二つ目は、行政改革と民間活力の導入です。
4月に、松代斎場の火葬業務、第二学校給食センターの一部給食
業務、9月には上下水道料金徴収業務等の民間委託をしてまいりま
した。それぞれ実績を上げています。県内では初めての試みである
温湯温泉のPFI(注1)事業は、事業者選定委員会で事業者の選
定が行われました。PFI事業については、その手法を学びながら
実施しており、今後の行政システム改革の手段として更に研究し、
増やしていきたいと考えています。
注1:PFI=Private Finance Initiativeの略。民間の資金、経営能力
および技術的能力を活用して公共施設等の設計、建設、維持管理、
運営等を行う手法
指定管理者制度につきましては、地方自治法の改正の趣旨を踏ま
え、長野市行政改革推進審議会に「市有施設の見直し検討部会」を
設置し、523の市有施設のあり方をご審議いただきました。同審
議会から検討結果の提言を受けましたので、今後、この提言を尊重
してまいります。来年は合併町村の施設についてもご審議いただく
ことになります。
行政評価につきましては、今年度は1,840件の事務事業につ
いて評価いたしました。今後、この評価結果を平成17年度予算編
成に生かすわけですが、懸案事項である外部評価についても検討し
たいと考えています。
日曜開庁につきましては、10月から月1回第3日曜日に本庁の
証明書等発行の窓口を中心に、16課で試行的に実施しております。
今後、来年3月までの試行期間の中で市民ニーズの把握に努め、市
民の目線に立ったより充実したサービスの向上を目指し、本格実施
に向けて取り組んでまいりたいと考えております。
三つ目は、廃棄物処理対策の充実であります。
本市に設置する長野広域連合の焼却施設の建設候補地につきまし
ては、「長野市ごみ焼却施設建設地検討委員会」において、委員の
皆さんに精力的にご審議をいただいております。検討委員会は、現
在、候補エリア選定の最終段階に入っております。今後、選定され
た候補エリアから、建設候補対象地を抽出し、比較評価するための
指標や基準をご審議いただき、建設候補地を選定していただきたい
と考えております。市民コンセンサスが得られる候補地選定は重要
ですので、十分なご審議をお願いしたいと考えております。
さて、本市では、4月から全市でプラスチック製容器包装の分別
収集を開始いたしましたが、上半期の結果は順調です。加えて可燃
ごみ、不燃ごみとも、予定以上の減量効果が見られ、昨年度より約
7パーセント減っております。市民の皆さんのご協力に感謝すると
ともに、引き続き分別の徹底、ごみの減量、再資源化の取り組みを
お願いしてまいります。
四つ目は、教育環境・内容の充実であります。
平成17年度以降の小学校高学年の35人学級編制事業につきま
しては、県と市町村のあり方懇談会の中で「4年生までは県が負担
する」併せて「5・6年生については、県と市町村の協働方式によ
る35人学級や少人数学習・ティームティーチング(注2)、加配
教員の振替方式などの中から選択・併用等も可能」とする提案があ
りました。これらの提案に対し、県市長会で討議の結果、来年度に
ついては県の提案を受け入れ、各市の判断により進めるという方向
になりましたので、長野市としても保護者や学校の意向を考慮しな
がら、選択肢の中で最適な方策を考えてまいります。
注2:ティームティーチング=学級の児童・生徒の状況に応じて、
複数の教員が役割分担をして、きめ細かく指導を行う方法の一つ。
中心市街地3小学校の統廃合計画につきましては、学校説明会や
地区懇談会を開催して関係校の保護者や住民の皆さんと話し合いを
行ってまいりました。その中で、住民の皆さんからいただいたご意
見やご要望を反映することにより、保護者の意向を尊重しながら緩
やかなかたちで将来の方向を決定していく移行措置の導入という考
え方を10月にお示しいたしました。この移行措置は、後町・鍋屋田・
山王小学校の3校を通学区域特例校と定め、通学区域の弾力化を図
ることにより、来年度から市内全域の新入学児童がこの3校のうち
から選択して通学することができるようになると同時に、3校の在
校児童や新入学児童もそれぞれ限定した隣接学校を選択して通学す
ることができるという学校選択制を実施するものです。そして、導
入後はその動向を検証して将来的に1学年複数学級が見込めるかど
うかを判断基準として、最終的な方針を決定するという考え方であ
ります。
この考え方を10月下旬から3校の保護者や住民の皆さんに説明
し話し合いを行ってまいりました結果、一部には依然として統廃合
そのものの白紙撤回を求める反対意見がありますが、これまで反対
されていた皆さんからも今回の考え方を評価するご意見をいただい
ております。また、多くの皆さんから移行措置の導入を肯定的に受
け止めていただいておりますので、来年度から実施できるよう努力
してまいります。
市立高等学校の改革につきましては、本年8月に改革モデルプラ
ンを作成し、広報ながの及びホームページを通じて広く市民の皆さ
んのご意見をお聞きしたところ、多岐にわたる建設的なご意見をい
ただきました。現在、これらのご意見も踏まえ、学校現場と一体と
なって具体的な教育内容について検討を進めております。また、よ
り魅力ある学校づくりに向け、高校生が在学中に大学等の講義を受
講できる「高大連携」の協力を信州大学及び清泉女学院大学等へ要
請したところであります。
五つ目は、バス路線網再編計画であります。
公共交通の活性化を目指して策定中であります「バス路線網再編
基本計画」につきましては、長野市交通対策審議会、同都市交通部
会においてご審議いただいております。現在、本年度中の最終報告
に向け、合併町村における今後の交通体系整備も含めご審議いただ
いており、今後、市民の皆さんのご意見もお聞きしながら、実効性
のある計画策定を進めてまいります。
地域内をこまめに回る地域循環コミュニティバスにつきましては、
本年9月1日から市内2路線で小型バスを使用して運行を始めまし
た。地域の利用者の皆さんには大変好評でありますので、今後も地
域の皆さんとともに、一層のPRに努め、定着を図ってまいりたい
と考えております。今は、マイカーが普及し、バスの利用度が低い
地域でも、バス運行が継続されることによって、高齢者をはじめ地
域に住む大勢の皆さんがバスに目を向けてくれるものと信じており、
今後もバスが生活に密着した移動手段として利用していただけるよ
う創意工夫を凝らしてまいりたいと考えております。
以上、16年度に取り組んできた重点項目についてお話しいたし
ました。本年度内に片付きそうもないテーマもありますが、今後も
全力を挙げて取り組みます。
今年あった大きな出来事といえば、やはり災害です。この秋は災
害が全国各地で相次ぎました。新潟県中越地方の大地震による被害
は言葉では言い尽くせないものがあります。本市でも信更町安庭の
地滑りや台風23号による大変多くの被害がありました。被害があった
河川・道路などの公共施設につきましては、国の支援をいただいて、
現在できるところから復旧作業を行っております。
新潟県中越地方の大地震による被災地では、現在でも避難勧告が
4千人余りに対して出されたままとなっており、こうした方々の大
半は、仮設住宅で雪の季節を迎えることとなります。本市からも被
災地の援助として、消防救助隊をはじめ、給水車、水槽車、バキュー
ムカーによる支援活動、また、保健師や「応急危険度判定士」の資
格を持つ技術職員のほか、「炊き出し」など現地で支援するために
職員を派遣いたしました。今後は新潟県災害対策本部からの要望・
要請に基づき、国・県・市長会などと連携しながら、適切な支援活
動をしていくつもりです。また、大勢の長野市民がボランティアと
して被災地で支援活動をしていただいています。心から敬意を表し
ます。
浅川治水問題についても簡単に触れさせていただきます。
国が「継続扱い」とし、「従来の計画」に基づいた「河川改修工
事」につきましては、護岸工事などが予定している一部で再開され
ています。しかし、整備計画につきましては依然として先送りされ
ているため、10月には県知事に対し、また、11月には県土木部
長に対し、河川管理者として県自らの責任で、一刻も早く、安全で
信頼のおける整備計画を進めるよう要望いたしました。しかし、県
からは「広く意見を聞きながら進める」という趣旨の答えがあった
だけで時期などは示されませんでした。私は従来から申し上げてい
るとおり、
(1)基本高水流量450トンを下げることは、市民の安全を値切
る話ですから、絶対に死守する。
(2)造るかどうかは別として、ダムは危険という論拠の無い意見
については議論しない。
この2点を変える理由は無いと思っています。このまま議論に進
展がないと、北陸新幹線の進捗にとって大きな支障となる可能性が
出てきます。
少し長くなりすぎましたので、終わりにさせていただきます。本
当は三位一体改革によって長野市の財政はどうなるか、入札制度の
改革、スペシャルオリンピックスなどもお話ししたいのですが、次
の機会にさせていただきます。
「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉があります。約1,200年前、
伝教大師最澄が説いた言葉で、「金銀財宝などは国の宝ではない。
自分が生きているところ、あるいは、自分が置かれたその場所で努
力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、かけがえのない国の宝
である。一人ひとりがそれぞれの立場で全力を尽くすことによって、
世の中が明るくなる」という意味だそうです。
この言葉を市役所にあてはめてみますと、職員が、本庁や支所な
ど自分の置かれている職場や立場で、日々ベストを尽くし職務を遂
行することによって、職員一人ひとりが光り、そしてその職場が光り、
やがては市役所全体が輝きます。そして、長野市にとっては、市民の
皆さん一人ひとりが光り、それによって各地域が輝き、やがて、長野市
全体が光り輝くことになると考えます。
長野市は、合併により約738平方キロメートルという大変広大
な面積を保有することになります。合併する1町3村を含めた住民
の皆さんや各地域が光り輝くことができるよう、さらに、観光・
スポーツ・自然など全国に誇れる魅力を最大限に引き出し、そして、
補完しあう、そんな「多軸型のまちづくり」を目指し、
「人が輝く 地域が輝く 多軸都市ながの」
「都市と自然が調和する 多軸都市ながの」
を新市のイメージとして、職員と一丸となって頑張ってまいりた
いと考えております。
市民の皆様にはどうぞ良いお年をお迎えくださいますようご祈念
申し上げます。
※次号のメールマガジンは、1月6日(木)に配信します。
2004年12月16日木曜日
お年寄りは元気です
今年のえびす講の花火は綺麗でした。例年晩秋のこの時期の花火
は、空気が澄んでいて、寒いことを除けばとても綺麗なことで有名
ですが、今年は天気にも恵まれ、例年より暖かく、絶好の花火日和
でした。人出も18万人ということですが、会場となった犀川第二
緑地一帯は人で一杯、夜店の数も例年より随分多いと感じました。
風がなくて花火の煙がなかなか流れず、次の花火の邪魔になったく
らいでした。
そんな中、毎年、打ち上げ場所のすぐ北側の「サンライフ長野」
の2階に、喜寿(77歳)の皆さんとその家族をご招待して、花火
を観ていただく催しが行われています。商工会議所の会頭さん、市
議会の副議長さんと一緒にご挨拶をさせていただき、記念写真を撮
っていただきましたが、皆さんとてもお元気でした。
100回目を迎える来年のえびす講煙火大会でも、多分また喜寿
の皆さんの招待は行われると思いますので、多くの方にお集まりい
ただきたいものです。
今週は、元気なお年寄りをテーマに、歳をとっても新たな挑戦を
続けている方や、ユニークな取り組みをされている方を紹介したい
と思います。
9月は老人の日を中心に、テレビで元気なお年寄りの話題が随分
多かったように思います。もちろん元気な話題だけでなく、“オレ
オレ詐欺(振り込め詐欺)”とか、ひとり暮らしの老人が殺害され
たとか・・・、気が滅入るような悲しい出来事もありますし、本当
にどうしてこんな事件が起きるのか信じられない思いをすることも
多いです。確かに日本の高齢化の進行は他の先進国に見られない速
度で進んでおり、急速に日本社会は変化しているようです。
でも元気な方もたくさんいらっしゃいます。NHKのテレビで見
たのですが、98歳の方がご自分の経営する障害者のための学園で、
教材を工夫して作って成果を上げている。しかもご本人は95歳か
ら中国語を学び、中国で障害者のための講演(中国語で)をやった
り、教材を紹介して喜ばれたり・・・・、正に超人です。そして専
門家の先生がその方の脳を調べてみると、脳の海馬の部分が新しく
活性化していて、こういうことがあるとは凄い発見だというような
ことを言っていました。
また、102歳の方が奥さんを亡くし、若干の痴呆もあって何も
できなかった状態から一念発起し、走ることに挑戦、5kmマラソ
ンの記録を出す。そしてご自分では「走るなんてもんじゃない、歩
いているようなもの!」なんておっしゃっていましたが、どうして
どうして、たいした方です。
三浦敬三さん(世界的スキーヤーの三浦雄一郎さんのお父さん・
100歳)もテレビで元気な話をしておられました。現在でも現役
のスキーインストラクターとして活躍し、99歳でモンブラン山系
最長のフランス・バレーブランシュ氷河を滑り降りるという6度目
の冒険スキーにチャレンジし、見事成功するという偉業を成し遂げ
ましたが、スキーのトレーニング中に骨折したことを悔しがってお
られたのは印象的でした。次の目標はツェルマットを滑ることだそ
うです。
これらの番組を見ていて感じたことですが、人は年をとっても、
生きている限り可能性を信じて努力すること、ある意味では何かを
継続してやり抜くことが、ボケ防止や寝たきりにならないで長生き
する為の大切な要素ではないかということです。95歳から中国語
を勉強しようなんて、語学音痴の私にはとても信じられませんが、
でもそういう方がいらっしゃる、そして専門家もびっくりするほど
の脳の構造に変わっていくというのですから・・・。(ただ生涯現
役ということで、頑張ることは結構なのですが、年をとるとどうし
ても頑固になり、融通性がなくなるという傾向はあるようです。若
い人の活躍の邪魔にならず、仲良くいたい、そして、聞き上手にな
ることも、我々の世代になると、大切なことでしょう。)
今度、長野市で信州大学の大下教授のお勧めで「健康麻将(マー
ジャン)初心者講座」を始めました。手先と頭を使うため、ボケ防
止に役立つのだそうです。まだ始まったばかりですが、評判は上々
で、お年寄りが喜んで参加されているようです。仲間作りにも良い
とのことで新しいコミュニティーが生まれているようです。
読売新聞の記事によりますと、1988年に設立された「日本健
康麻将協会」(本部・東京都)が提唱し、全国のマージャン店など
と協力して主に昼間に遊び場所の提供や教室の開催を行っていると
のことです。昨年1年間で、延べ10万5千人(初心者教室の参加
者を除く)と、前年より1万2千人も増えたそうです。
健康麻将のルールは(金を)賭けない(酒を)飲まない(タバコ
を)吸わない、そして「先ヅモ厳禁」と前後の挨拶をすることだそ
うです。信大の大下教授によると「過去の悪い印象を除けば、マー
ジャンほど面白いゲームはありません。ファミコンやテレビゲーム
よりはるかに面白い」そうです。そういえば、これもかなり前にテ
レビで見た話で恐縮ですが、中国でもお金を賭けないマージャンが
「競技」として行われているそうです(そのうちにオリンピック
種目になりませんかね???)。
私のマージャン好きは昔からの仲間はみんな知っています。学生
時代の徹夜マージャンから社会人になってからも随分楽しみました。
今にして思えば随分無駄な時間を費やしたなあという悔いも若干残
っていますが、でも健康麻将の提言を受けてすぐ反応できたのは、
マージャンの楽しさを知っていたからなのでしょうか。来年あたり、
「市長杯」を出してくれというような話になれば楽しいなあと期待
しています。
私も含めて、現在のマージャン愛好家がこのルールのマージャン
に入ってくるかどうかというと、正直言って当面は難しいでしょう
ね。でもみんな高齢者になってきていますから、いずれ友達が欲し
くなって、仲間になってくると私は思っています。それよりマージ
ャンが世間に認知されたゲームとして、オリンピックや日本選手権
に登場するようになれば、張り切って我こそはと名乗りを挙げてく
るはずなのですが。
思い出話をひとつ。塚田前市長の前の故柳原市長が、お酒とパチ
ンコが大好きだったことは有名です。昭和48年、柳原さんが最初
の市長選挙に当選された後の話ですが、柳原さんから「マージャン
をやりましょう、青年会議所の皆さんとでどうですか?」と誘われ
ました。そして卓を囲んだのですが、柳原さんは大きな風呂敷包み
を抱えて来られて、その中から小物を沢山出し、「今日は、上がっ
たら景品を上げます」という話。今なら100円ショップで売って
いるようなものや飴玉みたいな景品でしたが、いい思い出として記
憶に残っています(でも、それ以後、柳原さんのお誘いも、私たち
の仲間からの挑戦もなく、1回で終了しました)。
2004年12月9日木曜日
おじゃまします、長野市長です
11月1日の鬼無里村を皮切りに、15日大岡村、22日戸隠村、
24日豊野町と、合併する町村を訪問させていただき、住民の皆さ
んと話し合う機会を持つことができました。
合併する町村の住民の皆さんの中には、長野市民になることに不
安を感じている方がいるかもしれない、その不安を払拭したい、合
併協議の間、町村の中では賛否両論があったはずなので、合併が決
まった以上皆さんのわだかまりを一日も早く解消したい・・・そん
な思いでした。
私とすれば、もっと早い時期に実施したかったのですが、合併が
決まる前にやることは町村政に干渉することになるという心配もあ
り、県議会が合併決議をして県知事が総務大臣に書類を送付し、実
質的に決まったこの時点で町村にお願いして実現したものです(正
式には11月18日、総務大臣の告示が行われ、来年1月1日の合
併が確定しました)。
会議はそれぞれの町村の集会場で行われ、180人~270人ぐ
らいの出席をいただきました。長野市内で行っている「元気なまち
づくり市民会議」と比較して、人口比で考えればかなり多くの住民
の皆さんに集まっていただいたと感じています。
町村長さんと議会議長さんの挨拶の後、私(市長)が挨拶をし、
スライドを使いながらそれぞれの町村との合併協議の経過、そして
住民の皆さんの生活がどう変わるのかについて・・・特に生活に密
着した住民サービス、住民負担の変化について率直に話させていた
だきました。
合併協議段階での基本方針は、長野市と周辺町村を比較して、
1.長野市の住民サービスが良い、あるいは負担が軽い場合は長野
市の制度を適用する。
2.町村のサービスが良い、あるいは負担が軽い場合は、財政負担
等を考えて調整する。
というもので、後者の場合は町村の住民にとって不利になること
もあるわけで、後でこんなはずではないと感じられることだけは避
けたいと考え、サービスの低下するもの、住民負担が増えるものに
ついて、具体例をもって率直に説明させていただきました。そして
最後に将来の新市の目標について「都市と自然が調和する多軸都市
ながの」を目指し一緒に頑張りましょうと結びました。
私の説明の後、参加された皆さんからご意見・ご質問をいただき、
私あるいは同行した企画政策部長から答えさせていただきましたが、
基本的には前向きのご意見が多く、特に問題は無かったと考えてい
ます。ただ豊野町でのご意見の中で、浅川治水に関し「ダム問題に
は興味は無い。問題は鳥居川であり、千曲川の狭さく部である」と
いう意味の意見表明がありました。今回は一切触れなかった浅川に
関する長野市の見解に対する批判意見かもしれませんが、浅川と鳥
居川は合流しているわけですから、治水に関しては「上流と下流の
コミュニケーションが大切」ということを、お話しさせていただき
ました。
最後にそれぞれの町村の助役さん、あるいは収入役さんの挨拶が
あって終了しました。終了後、町村長さんの部屋でお茶をいただき
ながら、会議の結果について意見交換をさせていただきましたが、
住民の皆さんにおおむねご理解いただけたのではないかとの感想を
いただきました。私も合併前にきちんとお話ができて良かったと感
じています。
話は変わりますが、本年度の各地区での「元気なまちづくり市民
会議」は、11月28日で終了しました。7月から始まって、市内
26地区(27会場)で開催させていただきました。今年は半数以
上の15地区において土・日曜日に開催しました。地域の皆さんは
もちろん、私に同行する市職員も結構苦労してもらった、という気
がしています。
会議では、最初に私から本年度の長野市の重点課題ということで
1.市町村合併と都市内分権の推進
2.行政改革の継続と民間活力の導入
3.環境対策(ゴミ問題)の充実
4.教育問題(中心市街地小学校の統合と市立高等学校)の充実
5.公共交通機関の整備・充実
これらの概略を説明してご理解を求めたあと、都市内分権につい
て少し詳しく説明させていただきました。続いて地域からのご意見・
ご要望、そして参加された皆さんから自由意見をお聞かせいただき、
それぞれ同行した部長が対応についてお答えし、最後に私が出され
たご意見・ご要望に対する総括的なお話をさせていただきました。
平成14年度の市民会議から「自由討議」の時間を増やして欲し
いと主催する各地区区長会にお願いしてきましたが、時間の制約も
あり、なかなか満足いく形にはならなかったように感じていました。
しかし、今年はかなり意見も多くなり、理想に一歩前進したように
感じています。
来年は合併に伴って30地区になるわけで、日程的にかなりハー
ドになることは避けられません。最初と最後の市民会議の開催日が
約半年離れてしまうこともやりづらい面があります。少し工夫をし
たいと考えています。
2004年12月2日木曜日
「中核市サミット2004in宮崎」に出席しました
今年の中核市サミットは、九州宮崎市で開催されました。
中核市制度というのは、前にも申し上げたことがあるかと思いま
すが、政令指定都市以外で、人口30万人以上(人口50万人未満
の市は面積100平方キロメートル以上)の市に対し、政令指定都
市に次ぐ事務権限を認め、できる限り住民の身近なところで行政を
行うことができるようにした都市制度です。
この中核市制度は平成7年に施行され、翌年12市でスタートし
ました。長野市は冬季オリンピック終了後の平成11年4月に中核
市に移行し、サミットに仲間入りしました。中核市は現在、全国で
35市ありますが合併が進むともう少し増えるかもしれません。
(財)地方自治研究機構理事長の石原信雄さんの基調講演では、
市町村合併が一段落すると、地方公共団体の中で力のある所と無い
所の二極分化が起こる、そして道州制論議が盛んになって、都道府
県の空洞化は進む。その中で地方分権の旗手は中核市だ、その責任
を覚悟をしてほしいという内容の講演をいただき、中核市の果たす
役割の重要性を説明していただきました。
その後、第4分科会に出席、「市民との協働によるまちづくり」
について意見を述べさせていただきました。できるだけ具体的にと
いう注文がついていましたので、私は理念の話はやめて徹底的に具
体論を展開しました。
他市の市長さんたちの話を聞いてみると、総合計画に位置付けた
り、指針を策定しているのはどこも同じように感じました。
具体的に長野市では、「市民と行政とのパートナーシップによる
まちづくり」を掲げ、あらゆる分野において市民との協働を進めて
いること。一例として、市内の中心市街地の空き店舗を改修し設置
した「こども広場(じゃん・けん・ぽん)」では、企画段階から
NPO法人が積極的に関与し、開設後の管理・運営をこのNPO法
人に委託していること。自由な発想と柔軟な対応により、大変評判
の良い施設となっており、開設後1年5ヶ月余りで利用者が10万
人を突破したことなど。また、「市民公益活動促進のための基本方
針」を平成15年3月に策定し、協働によるまちづくりに必要な基
本的なルールや具体的な方策の骨子等を定めたことや、平成15年
4月には、市民自らの知恵と責任による自主的なまちづくりを資金
面で支援するために、「ながのまちづくり活動支援事業」を創設し、
市民の代表により組織された公開審査会で補助金の決定を行うなど、
事業の透明性・公平性を保ちながら実施していることなどについて
発表し、実際にどのようなNPO等がどのような事業のために、ど
の位の資金を獲得したか、実例をお話しました。
次に、市民公益活動や交流を行う上で必要な場所の提供として、
「市民公益活動センター」を中心市街地の空き店舗に設置し、活動
の支援、情報の共有化を図っていること。また、このセンターには、
「NPO共同オフィス」として12のブースを設け、月5千円の使
用料で貸し出していることもお話しました。
市職員に対しては、「市民公益活動団体との協働をどのように進
めるか」をテーマとした研修会を実施するとともに、市民公益活動
団体が市政への協働提案を行いやすくするため、福祉、環境、まち
づくり等、協働活動に関わりの深い41の所属に協働推進員43名
を配置し、協働に適した事業の事務手順を定めた、職員向けの「協
働マニュアル」を作成して、庁内におけるソフト面での環境整備を
進めていることを発表しました。
次に、地域における取り組みについては、長野市は過去の合併の
経緯により26の地区に分かれており、地域の行政運営を円滑に進
め、地域の声を迅速に行政に反映させるため、都市内分権を提案し
ていること。NPOの専門性と地縁団体の人間関係のネットワーク
をいかに融和していくかが、今後の課題と考えていることなどにつ
いてお伝えしました。
長野市は、自治会加入率が91%と非常に高く、各自治会の代表
者の集まりである区長会は、地区住民の合意形成を行うための組織
として、重要な役割を果たしている。また、各地区には、当市が抱
える課題を解決するために、環境美化連合会、交通安全推進委員会、
青少年健全育成地区会議など、市の要請によって分野別の団体を設
置していただき、地区内での活動を促している・・・ということを
お話しましたが、終了後、91%の加入率は驚異だという市の方が
いました。
次に、市民との協働によるまちづくりにおける課題につきまして
は、市民公益活動促進のためには、市民と市職員が互いに協働に対
する認識を一層深め、自主性・自立性を尊重した対等な立場で、地
域における様々な課題の解決に向けて、どう取り組んでいくか。ま
た、協働の相手となる市民公益活動団体の人材育成や資金調達に対
する支援等も大切と申し上げました。
地域における区長会や各種団体による取り組みにつきましては、
全国的な傾向として、従来の住民組織は役員の高齢化や自治会活動
への意識の低下などにより、活動の担い手が不足し、地区内の課題
を地区自らが解決することが難しくなっており、行政への依存が強
まっております。一方、行政側も、少子・高齢化や核家族化の進行
などにより、住民ニーズが複雑化・多様化しており、行政サービス
の領域が拡大している状況です。
長引く景気低迷や人口減少時代の到来に伴い、右肩上がりの税収
増加は見込めず、行政が全てを担うことが難しくなっているため、
今後は市民の自治意識の高揚を図り、市民と行政との協働関係を構
築することが重要であると訴えました。
NPOの持つ専門性と地縁団体が持つ地域内の人的ネットワーク
を生かしながら、連携・協働を進めることは、地域の課題解決にと
って有意義と考えられることから、今後どのような方法でこれらの
団体の連携を図るか、そのためにどのようなシステムを構築するか
が、市民との協働によるまちづくりを成功させる上で重要であると
捉えていることをお話しました。
最後に、都市内分権を実施するためには、市民の皆さんの理解と
協力が不可欠であり、市民の「自らの住む地域を良くしたい」「自
分もまちづくりに参加したい」という意識を高める方策や市民が地
区活動に積極的に参加できるよう、企業等の協力を得ることが重要
と主張しました。
翌日は、バスに乗って行政視察に出掛けました。宮崎市はスポー
ツに力を入れてまちづくりをやっていることが良く分かりました。
宮崎市立の「生目(いきめ)の杜運動公園」は、1万1,000人
収容の野球場「アイビースタジアム」を中心に、第2野球場、多目
的グラウンド、雨天練習用の「はんぴドーム」などがある立派な公
園ですが、まだ半分しか完成しておらず、平成21年の完成に向け
て工事中でした。
宮崎県総合運動公園は、プロ野球巨人軍のキャンプ地で有名です
が、サンマリンスタジアムを中心にあらゆるスポーツができるよう
な施設が整っている広大なものでした(さすがに冬季スポーツ関係
の施設はありませんでしたが)。木の花ドームでは巨人軍の秋季キ
ャンプの最終日で、打撃練習をやっていました。
野球場を中心とする施設を視察させていただきましたが、施設使
用料が非常に安いというのが率直な感想です。
日南海岸の青島方面も視察しましたが、この時期でもサーフィン
に興じる若者が沢山いるのにはびっくりです。聞くと通年可能だそ
うで、サーファーの大部分は宮崎県人ではなく、関西、そして関東
からの人であり、みんな働きながらサーフィンを楽しんでいるそう
で、中には住み着いてしまう人もいるそうです。
宮崎市は平成18年の1月1日に周辺4町と合併する予定だそう
ですが、いろいろお聞きすると大変なようです。周辺の4町は、約
9万人と人口が結構多く、合併後は40万都市になるそうですが、
全国的にも先駆的に合併特例区及び地域自治区の設置に向け準備を
進めており、地方分権の目指す自治体の強化にしっかりつながって
行くのかどうか、宮崎市の担当者も迷い、苦心しながら事務処理を
続けているように感じられました。
2004年11月25日木曜日
三登山(みとやま)トレッキングコースのこと
10月24日(日)、私は若槻コミュニティ・センターで行われ
た三登山トレッキングコース開設記念式典に出席しました。台風23
号による被害が市内あちこちで発生していましたので、その日のト
レッキングが可能かどうか心配でしたが、コース愛護会の皆さん、
城跡保存顕彰会の皆さんにより、コースの安全確認を実施していた
だいており、その結果、コースの一部変更もありましたが、無事ト
レッキングが行われることになりました。
三登山トレッキングコースは、2年前のみどりのテーブルでの要
望からスタートした事業ですが、その後、地域の皆さんには、ルー
トの検討、安全確認、地権者の同意取り付け、案内看板の位置確認
など、実際に歩いて汗をかいていただきました。また、パンフレッ
トの作製では、担当課と一緒に知恵を絞っていただき、地域の歴史
や文化を盛り込んでいただきました。市民との協働を掲げる市の政
策として、モデルケース的な事業と言えるでしょう。
三登山はご存知の方もいらっしゃると思いますが、牟礼村との境、
長野市の北側にそびえる山で、頂上にいろいろなアンテナが立って
いるあの山です。長野市街からはよく見える山ですから、あの頂上
へ行けばきっと素晴らしい眺望が望めるはずですし、あれだけアン
テナが立っているからには、長野市街だけでなく、かなり遠方まで
見渡すことができるはずと私は前から思っていました。
若槻という地名は、戦国時代、若槻氏の城があった場所であった
ことから付いた地名です。2年前私は地元の皆さんに案内していた
だき、若槻山城跡まで登りました。木を少し切ると素晴らしい眺望
が望める場所と感じていました。さらに上には番所があること、少
し下には若槻小学校をこの春卒業した6年1組の皆さんが発見した
出城(遺跡名「若槻山城跡堂沢出城跡(わかつきやまじょうあとど
うざわでじろあと)」)があるなど、歴史を感じさせる場所のよう
です。
若槻の公民館協議会の皆さんが作って当日配布してくださった
「ふるさと史跡めぐり」事業の資料によりますと、若槻団地にある
里城と山の中腹にある山城は、12世紀鎌倉時代初期、若槻頼隆に
よって構築されたと伝えられているそうです。頼隆は八幡太郎源義
家の孫でこの地に入って若槻氏の祖になった・・・いろいろな変遷
があったらしいのですが、とても私には説明できません。詳しくは
「若槻史」(昭和57年発行)をご覧いただきたいと思います。
「若槻史」は、市役所行政資料コーナーや若槻支所などで見ること
ができます。
ふもとの蚊里田八幡宮は立派なお宮ですが、当日トレッキングに
集まった皆さんに対し、私の高校時代の先輩・桜井一郎さんの名調
子の案内ぶりは、皆さんを満足させるに十分なものでした。観光地
には“語り部”が必要ということはかねがね私が申し上げてきたと
ころですが、物語が存在するということは、人にロマンを感じさせ
る素晴らしいことです。そのほか古いお寺の跡もあって、昔から開
けた場所であったことがうかがえます。
トレッキングコースは三登山だけでなく、髻山(もとどりやま)
コース、史跡散策コースも設定されていて、田子池や山千寺など、
過去メルマガで取り上げた場所も含まれています。
私達は普段車で移動し、舗装された道を歩くことが多くなってい
ますが、山の道は土や落ち葉の上を歩くので、柔らかく歩きやすい
し、葉っぱの色、木の香り、小川の水の音など、全身で季節を感じ
ることのできる場所が市街地からこんなに近くにあることは、本当
に嬉しいことです。トレッキングの問題点の一つは、交通アクセス
ですが、この場所は近くにバス停もあり、かなり行きやすいコース
と言えるでしょう。
山の道は手を入れないと、無くなってしまいます。大勢の人が歩
くことで道がつながり、人々もつながっていく・・・・そんなこと
を期待したいと思います。
2004年11月18日木曜日
防災メモリアル「地附山公園」の開園
平成13年度から建設工事を進めてきた地附山公園の一部が完成
し、10月23日(土)開園することができました。本当に素晴ら
しい公園です。山の上の方ですので、行くのは大変ですが、その分
景色は素晴らしいです。ぜひ大勢の皆さんに利用していただきたい
と思います。
昭和60年7月26日に発生した地附山地滑り災害では、老人ホ
ーム松寿荘に入所されていた26人の尊い生命が失われ、また湯谷
団地等へも土砂が押し寄せ64戸もの住宅を押しつぶすなど、多く
の被害が発生しました。この大災害の犠牲になられた方々に対しま
して、ここに改めて深く哀悼の意を表すると同時に、災害時におけ
る行政の対応、施設管理者の危機管理意識等について、深く考えさ
せられた災害でした。
地附山地滑り発生の日の夜、私も近くに住んでいるため、長野高
校の体育館に避難しました。地滑りの位置からすれば、「長野高校
の方が危険だ」などと思いながら、生まれて初めての避難生活を経
験しました。翌朝、報道関係のヘリコプターが多数飛来して大変な
騒ぎになったことを記憶しています。地附山の斜面が崩れて、地肌
が見えており、テレビでは湯谷団地へ土砂が押し寄せ、家を押しつ
ぶしていく悪夢のような映像を繰り返し報道していました。そして、
予測していなかった松寿荘の方向へも土砂が押し出し、素速い行動
がとれなかったお年寄りが26人も犠牲になってしまったのです。
地滑り被災地は、国から激甚災害の指定を受け、長野県を主体と
した関係機関の懸命な復旧対策により、今では安定した地附山へと
復元され、緑もかなり回復しました。オリンピック開催前、平成5
~6年ぐらいの頃だったでしょうか、地滑り跡地の緑を回復しよう
ということで、大勢のボランティアが集まり、幼苗植栽でナラや
ブナ等の広葉樹の植林を行いました。私も何度か参加しましたが、
きつい傾斜地での作業、皆さん一所懸命に頑張ったことを覚えてい
ます。その私達が植えた場所も今ではすっかり緑に覆われていて、
どのあたりだったのか正確な場所は分かりません。
地附山公園は、その地滑り跡地約25haのうちの約6.3haにつ
いて、地元地区の代表者や学識経験者、関係機関等を中心に構成さ
れた「地附山公園計画検討委員会」で整備の方法が検討され、設計
コンペで採用された案をもとに議論し、「基本構想」が策定されま
した。その後、平成12年には「みどりのテーブル」で広く市民の
皆さんのご意見をお聴きし、施設設計等に反映し、平成13年から
本格的に整備工事に着手しました。そしてこの度、公園区域の約4
割に当たる約2.5haを開園したものです。
長野県が施工した災害復旧工事も完了し、地滑り災害復旧に係る
情報を提供する場として「地附山観測センター(地滑り資料館)」
も整備され、地滑り災害学習の場としても大いに利用されることに
なるのではないでしょうか。このようなことを踏まえて、長野市は
地附山の地滑り災害を忘れないよう、公園の名称に「防災メモリア
ル」という冠を付けたものです。
公園施設はとても綺麗です。木製遊具が沢山設置され、芝生広場、
展望台、そして斜面にはローラー滑り台があって、子供達は大喜び
です。サクラの丘にはソメイヨシノが80本、ライオンズ・クラブ
の皆さんが寄付してくださり、エントランス広場の時計塔は国際ソ
ロプチミスト長野の皆さんからいただいたものです。皆さんの善意
のお陰で素晴らしい公園整備ができました。ありがとうございまし
た。
開園式のアトラクションで、湯谷小学校の6年3組の皆さんが、
この地域の石器時代を題材に創作劇をやってくださいました。そし
て地滑りの場所の上部に素晴らしい塚がある、そこまで公園を広げ
てほしいというようなアピールもありました。
大変申し訳ありませんが、この公園は冬の間は利用できません。
11月24日から3月31日まで冬期休園になります。年内はあと
数日しか利用できません。利用時間は、午前8時30分~午後4時
30分(入口ゲートは午後5時に閉鎖)とし、施設の保全と安全上
の観点から、当面夜間は閉鎖します。ただ、来年度の夏期(6月~
8月)からは閉鎖時刻を2時間延長し、午後6時30分(入口ゲー
トは午後7時に閉鎖)にする予定です。本当は24時間開園したい
のですが・・・。もちろん入園は無料です。
最後になりましたが、災害復旧の事業主体である長野県など関係
機関の皆様、公園事業にご理解とご協力をいただいた地元第二地区
など関係の皆様、並びに公園建設に携わっていただいた設計及び施
工業者の皆様、ありがとうございました。
2004年11月11日木曜日
長野市でたくさんのイベントが開催されました
この秋、長野市ではいろいろなイベントが行われ、とても賑やか
でした。今日はその元気を象徴するようないくつかのイベントを紹
介します。
まず「エコール・ド・まつしろ」の関連行事です。春・夏に続い
て賑やかに行われました。
<10月9日~10日>「松代藩真田十万石まつり」
俳優の田村亮さん、タレントの井坂綾さん、そして知音都市交流
でお付き合いのある自治体の首長さんにも参加していただいた大名
行列が白眉でした。
<10月9日>「童門冬二と辿る・まつしろ歴史探訪講演会」
童門さんは佐久間象山の小説を執筆した歴史小説家です。
<10月23日~24日>「黛まどかと詠む・まつしろ大吟行会」
俳人・黛まどかさんを迎えての開催。町を巡って句をひとひねり、
俳句を通じて松代の魅力を発見。
<10月30日~31日>「沼田早苗と撮る・まつしろ大撮影会」
写真家・沼田早苗さんを迎えての開催。人とふれあい、城下町の
暮らしを写す、紀行写真教室。
<11月6日>「松代城復元記念植樹祭」
「エコール・ド・まつしろ」運動を未来に育む植樹祭。大地の恵
みに感謝する収穫祭も開催して、みんなでお祝い。
次にスポーツ大会を見てみましょう。
<10月3日>
第18回NAGANO飯綱高原健康マラソン大会
<10月23日~24日>
長野県マーチングバンド大会
<10月30日~31日>
長野・群馬・山梨3県対抗水泳競技会
<10月30日~31日>
SBC杯第11回全日本スピードスケート距離別選手権大会兼2004
/2005スピードスケートワールドカップ派遣選手選考対象競技会
兼第22回ユニバーシアード冬季競技大会派遣選手選考対象競技会
<10月、11月>
長野県高等学校新人体育大会(弓道、陸上競技、ソフトテニス、バ
レーボール、卓球)
これから開催される大会です。参考のため紹介します。
<12月4日~5日>
2004/2005 Essent ISU
スピードスケートワールドカップ競技会・長野大会
<12月18日~19日>
アジアリーグアイスホッケー2004-2005
<12月24日~26日>
バレーボール北信越高等学校新人大会
いよいよスケートシーズンの始まりです。トリノに向けて頑張っ
て欲しいものです。秋の国体へも大勢の選手を送らせていただきま
した。
このほかにも、学会・学術会議等の全国大会が長野市で開催され
ています。特に私が注目しているのは、信州大学の遠藤教授が研究
を進めている「“ナノ・カーボンの科学と技術”に関する国際シン
ポジウム2004長野」でしょうか。10億分の1メートルレベル
の超微細な世界で展開される「ナノテクノロジー」は、製造技術を
根本から変えるといわれる最先端技術であり、「ナノ・カーボン」
は、ナノテクの代表的な素材です。さまざまな特性をもち、その応
用範囲は電子、エネルギー、医薬品など多岐にわたり、世界中の研
究者はもちろんのこと、企業や投資家たちからも大いに注目を集め、
「21世紀の新素材」と呼ばれているものです。
長野市としても、現在、信州大学と協働してナノサイエンスによ
る産業活性化を目指して「ナノサイエンス産業都市構想」の策定を
進めるなど、新技術の発信地としてこの分野を積極的に応援すると
ともに、「元気なまちながの」に結び付けていきたいと思っていま
す。
最後に市民の皆さんが中心となって開催された賑やかなイベント
を3つ紹介します。
<10月10日~17日>
第1回みすずかるしなのNAGANO映画祭
<10月16日~17日>
2004信州ふるさと自慢大集合
<10月24日>
若槻三登山トレッキングコースオープン記念トレッキング大会
映画祭は、本年第1回ですが、今後続けていきたいイベントです。
若里市民文化ホールや市内映画館の協力を得て、往年の名画「伊豆
の踊子」や「喜びも悲しみも幾歳月」などが上映されました。また、
大林宣彦監督の最新作「理由」は監督のトークと合わせて素晴らし
い企画でした。日本映画の草創期を支えた池田義信監督は、長野市
三輪(宇木)に生まれたとのこと。その息子さんが「長野に思いが
あり、映画祭のことを聞きつけ」飛び入りで参加してくださったの
も楽しい出来事でした。
「信州ふるさと自慢大集合」は、本年で19回目を迎えました。
はじめは城山公園で行われたのですが、オリンピック施設のビッグ
ハットに会場を移し、毎年賑やかなイベントです。
若槻三登山トレッキングは、昨年の七二会陣場平コースのオープ
ンに引き続き、2コース目のトレッキングコース設置となり、記念
のトレッキングを行いました。地元の皆さんが中心となり、台風23
号の影響で多少のコース変更はありましたが、若槻三登山から善光
寺平を見下ろすダイナミックなコースに、市内外からの参加者の皆
さんで賑わいました。
たくさんのイベントを紹介しました。もし何か紹介もれがあった
らお詫びしますが、本当に長野は元気なんです。大都市を除けばこ
んなにいろいろなイベントが行われている都市は、まず無いのでは
ないでしょうか。交流人口を増やそう、観光を当面の最大の産業に
育てようという長野市の政策としては、大いに自慢して良いのでは
ないでしょうか・・・と自画自賛しています。
これもオリンピック、パラリンピックによって培われた市民のホ
スピタリティ(おもてなしの心)といったソフト面と市内に沢山で
きたホテルや会議場の施設、そして新幹線や高速道のハード面が整
備されたこと、名所と言われるものが沢山あることなど、いろいろ
な要素の相乗効果でしょう。ありがたいことです。
2004年11月4日木曜日
「地方分権シンポジウムin城下町まつしろ」が開催されました
10月30日(土)、長野青年会議所(JC)の招きで、麻生総
務大臣が忙しい日程の合い間をぬって、「地方分権シンポジウムin
城下町まつしろ」のため長野市を訪問してくださいました。ここに
至るまでのいきさつは、今年の春、私が昔の仲間を訪問して「エコ
ール・ド・まつしろ」の宣伝をした折、麻生総務大臣から「一度行
ってみたいな、ただ公式な訪問は難しいなあ」との話になり、「そ
れならお互いJCの仲間だったのだから、長野JCに頼んで、長野
に来てもらえる企画を何か作ってもらうよ」ということになって、
半年以上にわたり内容や日程等について調整が行われ、ようやく10
月30日に決まりました。7月の国政選挙などの関係で随分遅くな
ってしまい、しかも内閣改造で、もし彼が大臣でなくなったら・・・
失礼ですが、正直に言うとちょっと心配でした。
私は偶然にも28日の午後から東京での会議が続いておりました
ので、30日の朝、東京駅で麻生総務大臣をお迎えし、新幹線の車
内で昔話をしたり、三位一体改革や市町村合併の話、そしてその日
のシンポジウムの打ち合わせ等をしてきました。
総務大臣が、現段階において大変微妙な立場におられることは承
知していました。特に三位一体改革について、地方6団体の意見が
提出され、そのことに各省庁が反対、与党の自民党も反対表明とい
う状況であり、総務大臣は間に挟まれて悩んでいる。また、度重な
る台風や新潟中越地震の影響で長野へ来ることが果たして可能なの
か。さらに、マスコミも注目していることでしょうし、彼独特の自
由な発言ができるのかどうか、心配でした。「悪いなあ!行けなく
なったよ」と言われる可能性は充分あったわけです。
でも電車の中で話をしていくうちに、彼の論理は揺らいでいるわ
けではないことを確信でき、私の心配は、失礼なことであって全く
杞憂だったことが分かりました。安心して長野へ、そして松代へ来
ていただくことができました。
松代ロイヤルホテルで長野JCの倉石理事長、パネラーをお願い
する作家の童門冬二さん、長野市の助役、収入役など、関係者を交
えて打ち合わせを兼ねた食事をとり、この席で長野JCが取り組んで
いる「信州松代真田地鶏」を中心にした弁当をご馳走になりました。
午後1時、シンポジウムがスタート。第1部は麻生総務大臣の基
調講演があり、この中で国と地方の関係について、歴史的な視点を
交えて講演をいただきました。印象的だった話は、まさに地方分権
の時代であった幕藩体制から、明治維新は列強に負けまいとして中
央集権国家を作り上げ、富国強兵に努力した明治の先人たち。その
中央集権の流れは敗戦後も続いて、国民は豊かになった、それは間
違っていなかった。
でも豊かになったが故に、みんながいろいろ考えるようになって、
自分達のことは自分達で決める、いわゆる地方分権の流れが出てき
て、その結果として平成12年施行の地方分権一括法が成立した。
その時点で議論の末、国家と地方の役割をきちんと決めてある。そ
して今回、三位一体改革で、地方分権一括法になかった税源の話に
踏み込んだ、すなわち権限だけでなく、その財源も地方に渡そうと
いうことである。まさに地方分権の正念場だ・・・・というもので
した。歯切れがよく、分かりやすい話でした。
そのあとのパネルディスカッションでは倉石理事長にコーディネ
ーターを務めていただき、パネラーは総務大臣、作家の童門冬二さ
ん、そして私(市長)の3人で、三位一体改革の話、市町村合併の
話等について意見交換を行いました。童門さんは、作家になる前、
東京都の職員だった経験のある人で行政をよく知っている。その上
で作家としての知識を生かし、江戸時代は100%自治の幕藩時代
だったという話をする中で、殖産興業を一所懸命やって産業の育成
をした藩だけが生き残ったということを語ってくださいました。
このパネルディスカッションの中で私からは、
1.麻生大臣の立場を考えると、三位一体改革、すなわち地方6団
体がまとめた3兆円の税源移譲と3兆2千億円の補助金・負担
金の廃止は何としてもやらなくてはならない。地方は苦しくと
も受けるべきで、それが将来の真の地方自治につながるはず。
2.市町村合併をしなくても、現在ある広域連合に徴税権を与える
など、特別地方公共団体の権限・機能を充実することにより、
実質的に合併と同じ合理化は期待できる。
3.現在の地方自治法では、地方公共団体という場合、県と市町村
を一緒に扱っているが、県と市町村では役割分担が大きく異な
っており、現在の枠組みは随分乱暴である。
4.政令指定都市と中核市の間にあるハードルを低くしてほしい、
具体的には都市計画の決定権と教員の人事権は中核市としてほ
しい(広域連合の権限にしてもらっても良い)。
5.市町村間のトラブルは県が裁定する、それは結構だが、県と市
町村間のトラブルは誰が裁定するのか、そのシステムがない。
今後県と市町村は対等の関係だとすれば、国はそのシステムを
作るべきであろう。
6.具体的な話として、平成16年度予算で、交付税と臨時財政対
策債の減額は大きすぎた。こんなに一度に減額されたら、地方
は成り立たない(国や県は直接住民に接していないから無理に
推し進めようとする、数年は我慢できるが長くは続かない)。
地方は中央を信用しなくなるのではないか。あまり急がないで
ほしい。
といったことを中心に主張させていただきました。
麻生大臣は、三位一体改革は地方分権の流れの中で大切とした上
で、交付税や補助金を減らして税源移譲をすると、人口の多いとこ
ろは税収がたくさん上がることになり、小さなところはやっていけ
ない。その辺をカバーするのが地方交付税である。ある程度の財政
補償処置はやらざるを得ないといった話をされました。
それぞれの立場で活発な意見交換が行われ、80分のパネルディ
スカッションは大変刺激あるものとなりました。
シンポジウム終了後、小雨が降る中、松代をご案内しました。真
田邸では善光寺木遣り松代分会の皆様に木遣りでお迎えをいただき、
邸内の座敷では着物姿の女性の方々からお茶の接待を受けましたし、
文武学校では、弓術所での作法やお花の会等、いろいろな展示会を
見学しました。
また、象山神社では、佐久間象山先生が幽閉中、多くの維新の志
士が訪れ会談した高義亭を訪ねた後、松代城跡を回って、松代を後
にしました。観るだけではない、利用して保存する文化財という発
想に、大臣は大変賛同してくれました。
その日の夜、大臣の歓迎を兼ねて「信州松代真田地鶏」のお披露
目記念パーティーが開かれました。長野JCが今年から始めた「ま
つしろ遊食プロジェクト」で、松代でしか味わえない新たなる食文
化の創造を目指し企画したものですが、倉石理事長が挨拶で曰く、
「10年後には信州松代真田地鶏が日本を制覇する」と凄い入れ込
みようでした。麻生総務大臣は、「エコール・ド・まつしろ」や
「まつしろ遊食プロジェクト」の取り組みが、地域の活性化につな
がると話しておられました。
麻生総務大臣との付き合いは彼が昭和53年の日本JC会頭の時
以来ですが、当時から吉田茂という大宰相の孫だけに、なかなかの
発想の持ち主とは思っていました(同じ発想という意味ではありま
せん)。今回じっくりお付き合いしてみて、失礼ながら、凄く大き
くなったこと、役人とは違う民間感覚に優れた感性の持ち主である
と改めて感じました。
2004年10月28日木曜日
台風22号に続いて23号が長野を襲いました
台風22号の痛手が癒えない10月20日(水)、またまた超巨
大台風23号が近づいてくる。台風が日本列島を縦断するという最
悪のコースが予想され、西日本各地の被害が続々報道されておりま
した。長野市も今回は直撃されそうだということで、緊急時に備え
た態勢をとり、私も電話が来ればすぐ飛び出す態勢を整えました。
帰宅直後、災害対策本部会議を開くという連絡が入り、直ちに市
役所の災害対策本部室へ。既に台風23号の影響が出始め、市内山
間部が土砂崩れ等で道路がズタズタ・・・先日の台風22号のため
陥没した国道19号も、長野国道事務所の努力でやっと迂回(うか
い)路を設置して機能回復を図ったのに、別の場所数カ所で寸断さ
れ、不通になったとのことでした。
また、柳原と布野の排水機場の能力が追い付かず、千曲川に排水
することができないため浸水被害があるとの報告があり、深夜1時
半頃、現場を視察するとともに避難されている皆さんのお見舞いに
出かけました。地域の自主防災会や消防団の皆さん、そして消防局
や建設部の関係職員が一生懸命に活動中でした。国の千曲川河川事
務所も可動式のポンプを持ち込んでくださり、排水機場のポンプと
併用し溢れた水を千曲川へ汲み出す作業の真っ最中でした。
地元の方の中には今までも市民会議等の機会に機場のポンプ容量
について、「市の計算は間違っている、もっと大きな容量のポンプ
を増設しなくては駄目だ」と強調しておられる方がいらっしゃいま
した。いずれにしろ浸水被害が発生したわけですから、現在の排水
能力だけでは問題があることは事実でしょうし、きちんと改良して
いくことは必要だろうと感じました。
布野公民館、排水機場、そして避難場所の柳原小学校、朝陽公民
館等を見舞いながらいろいろ話を伺いました。今回はそれほど大き
な災害ではなかったけれど、ポンプ容量問題は、国道18号のバイ
パス建設の問題ともからんで、今後検討する必要があると痛感させ
られました。
浅川も豊野地籍の千曲川合流点で被害、やはり立ケ花狭さく部の
問題が根本問題として浮上することは確実でしょうし、新幹線の車
両基地周辺の水害を見ると、浅川治水におけるダム問題を地元の皆
さんが強調することは当然と思いました。
さらに犀川の小市地区の水位も上昇を続けているうえ、上流にあ
るダムの放水もあって、安茂里地区に避難勧告を出してほしいとの
千曲川河川事務所からの要請がありましたので、現地に収入役を派
遣し、消防団や地域防災会の方々が巡視と警戒、そして無堤防地域
への土のう積みを行いました。幸い、それほど犀川の水位は上がり
ませんでしたので、犀川流域では安茂里小市地区の一部を除き避難
勧告までには至らなかったことは助かりました。この地域は人口が
多い場所だけに、避難勧告となれば、避難場所の設置、食糧や毛布
の手配等、大変な準備が必要になるところでした。
千曲川、犀川の水位が峠を越しても、立ケ花の水位だけは危険水
位を突破して上がっていく。長野市だけでなく、周辺市町村もかな
り被害が出ているようでした。
朝5時過ぎ、2回目の災害対策本部の会議を終了。明るくなって
からの点検作業を指示し、路線バスや学校については、安全を第一
にすることを申し合わせました。
21日(木)は午前中、浅川を視察しました。中流域は普段より
かなり多い濁り水が出ていましたが、危険は無さそうでした。しか
し、浅川と千曲川の合流点付近の冠水状況は大変でした。一面の水
浸しの中にりんごの木が立っているという状態で、千曲川の状況も、
普段は木が生えているはずの場所すべて、川幅一杯に泥水が音を立
てて流れていました。
新幹線の車両基地の周辺まで行ってみましたが、水が深くて車が
進めず、引き返さざるを得ませんでした。
午後は安茂里地区の視察を行いました。小市公民館には、避難勧
告が出ている地区の皆さんがまだ避難を続けておりましたし、松ケ
丘小学校の裏山での土砂崩落は、体育館の周辺に相当の土砂が流入
していて、地元の消防団の皆さんが、一生懸命排除活動をしておら
れました。しかし、人力ではとても大変で、重機を入れざるを得な
い状況と感じました。安茂里には無堤防地区があり、今回は無事だ
ったが、安心はできないとのことでした。
台風23号は、長野市における人的被害こそ無かったものの、避
難勧告が柳原布野地区では約200世帯、安茂里小市地区で約40
世帯が対象となり、被害個所は数え方にもよりますが、柳原布野で
59世帯が床下浸水、信更町赤田で1戸が床上浸水となったほか、
道路関係が70カ所、河川関係が32カ所、農作物や農道・林道、
公園施設など市内各所で災害の爪あとを残しました。崩れやすい傾
斜地の多い長野市です。地滑り地帯も多くあります。地形が急峻で
あることは、土石流発生の危険性も常にあるわけで、残念ながら災
害に強い町と胸を張って誇れないのが実情です。今回の被害の対応
については災害発生時の救援活動について協定を結んでいただいて
いる建設業協会の皆さんにいろいろな場面で活躍していただきまし
た。
22日(金)に上京して、国土交通省を訪問しました。主として
は台風22号の影響で陥没した国道19号の一刻も早い復旧を陳情
してきました。大宮の国土交通省関東地方整備局と霞ケ関の本省を
訪ね、幹線道路の陥没で大変な影響を受けていること、また、地域
の生活道路を迂回路に使っていることから、主として中条村から長
野市七二会地区にかけての住民への影響が極めて大きいということ
を訴えました。災害が連続しているため、官庁の幹部職員が現地視
察に出て留守の所が多かったのですが、訴えを親身に聞いてもらい、
何とか年度内には、仮橋による国道復旧をしていただけそうな感触
を得ることができたことは収穫でした。
このメルマガを書いている最中、大きな地震が発生しました。幸
い長野市ではこの地震による災害は現段階では報告されませんでし
たが、報道によると、震源地は新潟県の小千谷市で震度6強・・・
そして翌日、時間の経過とともに、被害の凄まじさが伝わってきま
した。亡くなった方、負傷した方が増える一方ですし、家屋倒壊、
道路崩壊、土石崩壊等々・・・・電気・ガス・水道も壊滅的な被害
を受けたようで、自衛隊も出動する最悪の状態のようです。被災さ
れた方々に心からお見舞申し上げるとともに、何とか復旧するまで
頑張っていただきたいと思います。
今回の災害にともない、長野市では24日(日)に新潟県からの
要請に応じ水道局から2トン給水車2台、消防局から10トン水槽
車1台が十日町市に向かうとともに、25日(月)には総務省の指
示により、長野県救急消防援助隊部隊として県内の消防をまとめ、
最大の被災地に向かいました。テレビで見ると、住居を失っただけ
でなく、「寒い」「水が足りない」「食糧が足りない」・・・・・
豊かといわれている現在の日本では信じられないことが起きている
わけです。すぐにでも何か行動したい・・・・すみやかに、整然と
した援助活動をしたいと思っています。
このような中、長野県市長会の18市では、新潟県の災害対策本
部と連絡をとり、各市が提供できる救援物資のほか、復旧作業に必
要な技術職員を派遣、市営住宅や宿泊施設についての情報を提供し、
被災地の要望に合った救援を行うよう準備を進めました。
隣県の災害です。日を追って伝わる災害情報を見る限り、この新
潟中越地震は阪神淡路大震災に肩を並べる大災害と感じますし、今
回の地震にみられた集落の孤立という事態は、もし長野市で震災が
起これば発生しうることです。中山間地や1町3村との合併後のま
ちづくりでも、ライフラインの確保と情報伝達体制の充実に努めて
いきたいと思います。
2004年10月21日木曜日
全国史跡整備市町村協議会・長野大会が開かれました
10月6日(水)、北は北海道から南は沖縄県まで、全国で史跡
等を持っている市町村から、史跡・文化財担当職員(主としては学
芸員)が長野市に集結し、全国史跡整備市町村協議会長野大会が開
かれました。この大会は昨年度、函館市で開かれ、その時の報告は
メルマガでさせていただきましたが、今年は昨年の決定に基づき、
長野市で開催されたものです。
開催日の前日、文化庁の河合隼雄長官、辰野裕一文化財部長、村
田善則記念物課長、県の瀬良教育長、そして全史協の市町村役員が
集まり、翌日からの大会の打ち合わせをさせていただきました。長
官は大変気さくな方で、フルートの名手ということでした。毎年1
回、戸隠でフルートの演奏をされるということで、長野のこともよ
くご存知でした。この会では、大川奈良市長さんが勇退されて空席
になっていた全国の会長の後任として、小澤小田原市長さんを内定
し、大会のスケジュールが承認され、終了しました。
政府の三位一体改革で財政状況が厳しい中、文化財関係の補助金
を廃止して税源移譲する案は一応撤回されたとのことで、皆さん
ホッとしていました。私は個人的には、政府の補助金を廃止して、
その分を税源移譲するというのは、個々には問題がありますが、総
論としては地方の財政の自由度を上げるという意味で、地方分権の
実現のためには大変重要なことと思っています。ですが、この文化
財関係補助金だけは、現在の制度を維持してほしい。なぜならば、
文化財の保護は地方にとって重要ではありますが、緊急度という点
からは、生活に直結していないがゆえに優先度は低い。さらに、地
方財政は苦しいので、税源移譲されても他の緊急度の高い分野に回
ってしまう可能性はかなり高い。市民もそのことにあまり意見を言
わない・・・。そうなるとどうしても文化財保護が後回しになり、
結果として大切な文化財が失われたり崩壊し、国家の大切な遺産が
失われていく確率が高い。常々私はそう思っていました。
補助金の中で何が大切かという議論は、おかしな話です。全て大
切であるがゆえに、過去、国は補助金として出していたのでしょう。
軽重ではない、補助を止めた場合、社会にどういう影響があるか、
そのことを基準に考えるべきでしょう。その意味では、文化財の保
存・修復の補助金が、補助金削減リストからはずされたということ
は、正解だと思います。だからといって予算が安泰だとは言えませ
んが・・・・。
翌日、午前中は役員会、午後から総会が開かれました。挨拶のあ
と、開催市の市長として議長役を務めさせていただき、平成15年
度事業報告・決算、平成16年度補正予算、平成17年度事業計画・
予算、そして来年度の第40回記念大会の開催地については山口県
萩市に決定、また、役員選出も予定どおり議決されました。大会決
議については「史跡等公有化助成の充実」「史跡等整備活用事業の
推進」「埋蔵文化財発掘調査等の充実」を要望するということが全
会一致で決まりました。
そのあとの講演会では、静岡大学教授で文学博士の小和田哲男先
生に「松代城の歴史と城跡の復元整備」と題して、約1時間の講演
をいただきました。先生は昭和37年、初めて松代城址を訪れて以
来、この城と付き合ってきたとのことで、現在、松代城の整備委員
をお務めいただいており、今後も、真田邸の整備にお力を貸してい
ただくことになっています。
先生の話では、城の歴史は、最初は近くの尼飾山にあった尼飾城
の出城として海津城が造られ、だんだん平地の城が主流になったこ
と、山本勘助や川中島合戦、高坂弾正のこと、そして武田家滅亡後、
真田家が入城するまでの歴史などが語られ、大変興味深い話でした。
城跡の発掘調査と整備事業については、昭和56年に国史跡に指
定されて以後の太鼓門・北不明門・本丸等の発掘作業、文献資料の
調査、絵図面の発見、そして土塁の復元、太鼓門・北不明門の復元
工事に着手したということが順を追って話されました。特に土塁の
高さへのこだわり、すなわち当時槍の長さは3間(約5.4m)な
ので、その槍を立てた時、外から見えない高さにこだわったという
話は面白かったです。
講演の中では、松代は武家屋敷、商家など、幕末の建物がコンパ
クトによく残っているため、歴史を生かした街づくりが大切である、
城下町の雰囲気は一度消えたら戻らない、行政・歴史愛好家・ボラ
ンティアの存在が大切である、今、エコール・ド・まつしろで市民
が燃えている、城好きな人達が集まってくれば・・・といったお話
もあり、今、長野市が取り組んでいることが間違っていないという
ことをお話しいただいたように感じました。
続いて、記念公演として、長野市の無形民俗文化財になっている
善光寺木遣りと風間神社太々神楽獅子舞の披露がありました。
2日目、3日目は史跡・文化財が沢山ある長野県ですので、松本
市・塩尻市・茅野市・上田市・千曲市そして長野市がそれぞれコー
スを設定して、参加者に史跡・文化財の視察を行っていただきまし
た。長野市はもちろん松代が主体でした。
ちょっと前の話ですが、今年の8月5日、長野市長が代表を務め
る全史協北信越地区協議会が富山県氷見市で開催されました(昨年
は石川県加賀市で開催されました)。ここでの視察研修は「国史跡
柳田布尾山古墳(やないだぬのおやま こふん)」、県建造物「道
(みち)神社拝殿」「国史跡 大境洞窟住居跡」でした。
7月中旬の集中豪雨によって、新潟県そして福井県、富山県内で
大きな被害が出ましたが、史跡にも被害があり、福井市の「一乗谷
朝倉氏遺跡」が土石流により埋まり大きな被害を受けたとの報告が
ありました。大勢のボランティアにより土砂は取り除かれたという
ことですが、あとの復元整備が大変です。心よりお見舞いを申し上
げます。
その後、北信越地区内ではありませんが、有名な厳島神社も大き
な被害を受けたとの報道もありました。台風、大雨という自然現象
が原因とはいえ、日本の歴史を伝える史跡や文化財が失われるとし
たら残念です。一度失った歴史的遺産を取り戻すことは至難の業か
もしれませんが、一日も早い復元を願っています。
2004年10月14日木曜日
信更町安庭地滑り災害について
10月8日(金)~9日(土)にかけて、台風22号が強い勢力
を保ったまま日本列島に、そして長野にも近づいてきている・・・。
過去数年間で最大規模と報道される中、9日(土)・10日(日)
に開催される松代藩真田十万石まつりに影響がでないかハラハラし
ました。
9日(土)、雨の中、河川の状況が心配になり、長沼地区の「元
気なまちづくり市民会議」の前後に浅川を見て回りました。川の水
は濁っていましたが、危険なほど増水しているとは感じませんでし
た。しかし、新幹線車両基地の周辺の田畑は、水がついていました。
幸い台風は北上するに従って、偏西風に乗ってスピードを上げ、
9日中には長野周辺を通り過ぎてくれたようで、ホッとしました。
ところが一旦帰宅しましたら、市役所の危機管理防災課から連絡が
入り、「信更地区の安庭で土砂崩壊が起きている。至急、災害対策
本部を設置したい」とのことで、直ちに市役所の危機管理防災課の
隣に設置された「信更町安庭地滑り災害対策本部」室へ駆けつけま
した。消防からの報告はかなり大きい崩落とのことで、すぐに市川
助役に崩壊現場へ出向いてもらいました。
報告によると、国道19号と白馬長野有料道路の交差する付近の
道路が崩落、飲食店舗とその店主宅が陥没とのことで、かなりの被
害(そばに「長野の門」のひとつ長野市野外彫刻の「ARC OF
NAGANO」もあるはずですが、その時点では報告なし)が発生
している模様。すでに市消防局は出動、消防団も中条村の応援も得
て配置済みとのことで、崩落現場とその付近の5世帯に対し、近く
の安庭地域公民館への避難指示・避難勧告を出すとともに、警戒に
当たる皆さんの分も含めて食事や毛布等の手配を指示し、地元の皆
さんには率先して炊き出し等をしていただきました。ケガ等の人的
被害がないことが救いではありますが、物的被害は相当大きいよう
で、現場に駆けつけた助役の報告を受けてから対策本部員にそれぞ
れの役割を指示しました。その後、崩れやすい他の地域のことが気
になり、総務部長に危険個所の点検を再度指示しました。
10日(日)、朝7時に災害現場の安庭に向かい視察を行いまし
たが、予想以上に凄い被害に驚きました。飲食店舗は完全に崩壊し
店主の自宅は犀川のふちまで流されていましたし、竹下内閣当時の
ふるさと創生基金で3つ造った「長野の門」の一つが、飲食店舗の
近くにあったのですが、約100m近く流されていました。基礎は
相当深く造ってあるはずですから、倒れもせずそっくり流れている
のには驚きました。国道19号は崩落して、もちろん通行止め、白馬
長野有料道路も信州新町方面からの側道以外は使用不能という状況
になり、現場が交通の要衝だけに困りました。
避難された方々が安庭地域公民館にお集まりになっていましたの
で、お見舞いをさせていただきましたが、地元の区長さんをはじめ
大勢の方々が詰めていただいており、力強く感じました。飲食店の
店主は体調を崩されたということでお会いできませんでしたが、奥様
にお見舞い申し上げることができました。気丈な方で、このような
大変な時にもはきはき応対していただきました。
現地の状況をより詳しく調査するため、長野県消防防災航空隊の
ヘリコプターで上空から視察することになりましたが、災害発生直
後からの状況を最もよく知っている市川助役に搭乗してもらい、上
空からの視察を行いました。人的被害がなかったことは不幸中の幸
いでしたが、やはり物的被害はかなりのもので、国道が通行可能に
なるためには、相当の期間が必要だろうというのが実感だったそう
です。
市役所に戻って、昼、災害対策本部会議。これまでの経過の報告
と処置についての報告があり、今後の対策についても検討が加えら
れました。また、午後3時からは今後の対応を検討するため、長野
国道事務所で、国、県、市の担当者が集まって対策会議を開きまし
たが、その会議には、現地調査をしていただいた信州大学の小西助
教授にも出席をしていただきました。
午後5時半に災害対策会議を開催し、国、県との対策会議の報告
がありました。この中で、国が現地の2か所に伸縮計を設置してあ
るので、その結果を見て長野市が危険度を判断し、避難指示・避難
勧告の解除に関する決定をする(解除をできるだけ早くと思いまし
たが、制度上仕方ないようです)ことにし、この日は解除のための
資料が不足しているということで、解除できませんでした。
国道復旧については、とにかく国道19号の迂回(うかい)路整
備を国が1週間で整備するとのこと、具体的には唯一残った信州新
町方面から白馬方面への側道(一方通行)と、歩道を利用して2車
線確保しようということで、応急処置としてはそれしか無いと思い
ました。夜8時から地元説明会を行うということになり、国、県、
市が説明し、地元の要望をお聞きすることにいたしました。
翌日(11日)は、前日夜の地元説明会で出された住民の皆さん
の要望(多くは交通路の確保)について、バス会社を中心に、県、
市等との調整を行い、ほぼ要望にお答えする態勢を整え、午後から
の災害対策本部の会議で確認されました。また、この会議において、
4世帯に対する避難勧告は解除されましたが、自宅と店舗を被災し
た方ににつきましては、避難指示は継続となり、現在、仮の住まい
を市が斡旋中です。
道路の問題は、12日(火)の午前中から迂回路整備の工事が始
まりましたが、1日当りの交通量が1万台という国道19号が寸断
されたことは、長野市とその近隣市町村、流通等関係機関へ大きな
影響を長期間にわたって及ぼすことになるでしょう。被災された皆
様にお見舞いを申し上げるとともに、1日も早い復旧に長野市とし
ても全力を注ぎたいと思います。
9月30日配信のかじとり通信において、石家庄市での訪問先の
中学校名「第34中学校」は誤りでした。正しくは「第43中学校」
です。おわびして訂正いたします。
2004年10月7日木曜日
友好都市、中国の石家庄市訪問(その2)
9月26日(日)
朝早く起きて、ホテルのそばの人民広場を散歩する。石家庄市が
21世紀の幕開けを記念して造った広場とのことだが、広大な敷地
に毛沢東の銅像をはじめ、噴水や樹木もきれいだし、花園も造って
あってなかなか立派なもので、地下にもいろいろな施設があるよう
だ。人民大会堂もあって、10月1日の国慶節の準備が盛んに行わ
れていた。そういえば、建国55年を祝う国慶節の準備がいたると
ころで行われており、花が飾られ、スローガンが掲げられ、そして
踊りの練習が行われている等、国中で祝う祭りとして定着している
ことがよく分かった。この朝は大勢の市民が太極拳や社交ダンスな
どを楽しんでいた。
朝食後、市内視察に出かける。最初は地表水工場、すなわち水道
局の浄水場へ。工場長の説明によると、石家庄市には浄水場が8つ
あり、その内7つは地下水を汲み上げている(井戸の深さは40m
ぐらい。意外に浅い井戸と感じた)。ここだけは、50kmほど西
の山岳地にある2つのダムから取水している工場とのこと(地表水
という意味がようやく分かった)。市内の水の必要量は1日70万
立方メートルだが、この工場ではその内30万立方メートルを受け
持っているとのこと、大きなモーター6台で供給していた。かつて、
石家庄市としては飲料水が不足していたので、1994年に着工、
総工費12億元(現在、1元は約14円)を費やして96年に完成、
供給を開始し、水不足を解消したそうだ。浄水場の仕組みは長野市
とあまり変わりはないように感じた。
続いて石家庄市植物園へ。これは凄い規模の植物園だった。
163haという広大なもので、ゴルフ場1つより大きいぐらいか。
1998年に着工して現在も建設中であり、植物園というより遊園
地も含む一大公園という方が正確かもしれない。平成13年に友好
都市提携20周年で石家庄市を訪れた長野の訪中団(当時の塚田長
野市長、伊藤市議会議長、日中友好議員連盟会長の藤沢市議会議員
と同連盟副会長の松木市議会議員)がまだ完成前にここを訪れた時
の記念植樹と石碑も見つけることができた。植物園にはいろいろな
花、野菜、樹木があったが、中でも盆栽園はなかなかしゃれたもの
で、造園に携わった人の中には、長野の園芸会社へ研修に来た職員
もいて頑張っているとのこと。ここで働いている職員は正規70人、
臨時雇用の方も含めて300人とのことだが、学校のような施設も
あって研修に来ている人も相当いるようだった。ほかにも遊園地や
遊覧車、遊覧船、レストランなどの施設が整っており、よく考えら
れた公園だった。
現段階の必要経費は年800万元だが、収入は入園料で500万
元(入園料は1人20元、年間35万人、数字が合いませんが多分
子どもの料金が違うのでしょう)で、足りない分は行政から補填し
てもらっているとのこと。でも今後の施設建設によっては、自力で
の経営も夢ではなさそうに感じた。
一番凄かったのは、池というより大きな人工の湖(38.7ha)
があり、遊覧船で回ることができるようになっていて、途中には橋
が32、人工島、噴水、劇場、蓮を鑑賞する場所、魚を見る場所も
あって、ボートで楽しんでいる市民も大勢いた。
この場所は元レンガ工場の跡地だったそうで、その掘った土で築
山を築いて、滝を造っている最中だった。いずれ見事な庭園になり
そうで、石家庄市の重要な観光資源になりそうな気がした。
昼食は植物園のレストランで、園長さんの話を聞きながらご馳走
になった。訪れた人も食べているのだろうが、従業員や研修生もこ
こで食事をとる食堂といった感じだった。
続いて、正定県の「隆興寺」、そして臨済宗発祥の地「臨済禅寺」
を見学した。どちらも創建以来1400年~1500年ぐらい(随
や宋の時代)の、日本でいえば国宝級のお寺。毛沢東の文化大革命
の頃、荒れてしまったのを修復しているとのことだったが、大きな
伽藍、そして大きな仏像が沢山ある立派なお寺だった。また、臨済
禅寺には、日本に臨済宗を伝えた栄西禅師の胸像があった。
ホテルで休息。強行軍で少し疲れた。
迎賓館ホテルで、政治協商石家庄市委員会 李宏英主席の招待夕
食会。彼の肩書きは大学兼職教授、国家優秀・発明専利・発明人と
なっているが、長野市との友好協定提携時の市の秘書長、その後約
10年間副市長を経験し、柳原、塚田両市長と交流があったとのこ
と。
話題は若干経済に関することが多かった。でも中国式カンペイ
(乾杯)!は相変わらず・・・。今まで、長野市へ行ったことがな
いということだが、今年の11月に長野市を訪問するとのこと。歓
迎しなくてはならないと思う。中華料理を満喫してホテルへ戻る。
9月27日(月)
連日の早朝からの日程による疲労や北京周辺の渋滞状況などを考
え、本日の日程は午前中をキャンセルさせていただき、ゆっくり北
京へ移動しようということになり、石家庄市を離れることになった。
朝食後、ホテルロビーで、石家庄市外事辯公室主任の楊さんが見
送りに来てくれて、お別れの挨拶。こちらに来てから撮っていただ
いた写真のアルバムを頂く。出発。石家庄市の出口のインターチェ
ンジで、滞在中付き合ってくれたパトカーと手を振って別れ、高速
道路を使って一路北京へ向かう。途中、2回ほどトイレ休憩を挟む
が、中国旅行(特に女性の)で困ることの一つがこのトイレの問題。
以前よりは整備が進んだとはいえ、まだまだ旅行者には大きな障害
になりそう。でも、あと10年もすればきっと・・・、と期待をし
ている。
約4時間後、北京に着いて遅い昼食。予定外の行動だったので、
大衆食堂を探してラーメンを食べたが、日本のものとは全然違う味
と麺。どちらかというと“うどん”に近い。でも美味しかった。申
し訳ないが、こういう食事の方が体質には合う。
天安門広場へ。北京に来るたびに、何度か訪れたことがあるが、
ここも国慶節を前に準備に忙しい。花が主体の飾り付けが行われて
いたが、異色は「中国航天」という中国自慢の有人宇宙船を花でか
たどった大きな塔、正に国威発揚の場なのだろう。天安門の毛沢東
の肖像も変わりはなかった。
故宮博物館に入る。残念ながら修理中の建物が多かったが、いつ
ものことながら、大きな構造物に圧倒される。台湾の故宮に比べ、
文物は見劣りすることは中国人も認めているが建物は立派。明、清
の時代の中心地として栄え、辛亥革命で清が倒されるまで、都だっ
た場所。故宮を出て、近くの王府井(北京の銀座)を散策。広い道
路が500mぐらい歩行者天国になっていて賑やか。広い道路は商
売には向かないという常識(?)に反し、確かに北京の銀座と言わ
れるだけのことはある。でも買い物はする気にはなれなかった。
着いた時と同様、車のラッシュは凄まじい。のろのろ運転という
より全然動かない状態が1時間以上続く。これでは仕事にも差し支
えるのではないか・・・・。予定は全く狂ってしまうのも仕方ない
感じ。
9月28日(火)
朝食後、ホテルを出発。万里の長城へ向かう。高速道路が出来て
いて約1時間。私は今回3度目の訪問だが、1度目は列車で八達嶺
の駅まで来て、そこから雪のぱらつく中を歩いた記憶がある。2度
目は確かバスで来たが、こんなに立派な高速道路はなかった。
何度来ても、万里の長城は凄いと感じる。ユネスコの世界遺産に
も登録されているが、とにかく道具や機械の無い時代、山々の峰を
結んで6000kmに及ぶ壁を造るなんて発想は、大陸でなければ
ないし、中国でなければ出てこないだろう。歴史上では春秋戦国時
代から建設が始まり、秦の始皇帝の時代にほぼ完成したようだが、
その労苦、特に壁の建設に駆りだされた人民のそれは、想像を絶す
るものがあるし、全国から連れてこられた防人(さきもり)の嘆き
の唄、そして故郷を思う唄は、昔習ったことがあるけれど、悲惨だっ
たであろうことは十分に理解できる。
万里の長城は、随分整備されていて石の階段も歩きやすくなって
いた(最初に訪れた頃はまだ未整備で、所々崩れていたりして自由
には歩けなかった)。フーフー言いながら一生懸命かなりの位置ま
で登ってみたら、リフトや公園のお猿の電車みたいな乗り物があっ
て、下から簡単に登れるらしい、正直ガックリ。ちょっと興趣を削
がれた感じ。また、長城入り口付近も大変整備され、一大観光地化
しているのには、びっくり。お土産屋さんやホテルもあって、まっ
たく様子は一新していた。博物館には360度のパノラマスクリー
ンがあって、長城の説明をしていた。長城の入場料は大人1人45
元。随分大きな収入だろうなあと余計な詮索をしてしまう。
次の視察会場への移動の途中、レストラン(どちらかというと、
観光客用のドライブイン)で昼食。「日本食を用意しました」との
ことだったが、お弁当箱を開けてみると、おかずはやはり中華料理。
でも、久しぶりに味噌汁を飲むことができた。
バスで「明の十三陵」に移動。ここへも何度か来ているが、その
壮大さ、豪華さにはいつも驚かされる。この陵は地下深くにあるこ
と、陵自体は比較的新しいこともあってか、盗掘されていなかった
とのこと、明の皇帝の権威を示す威容を誇っている。
今夜は「中秋の名月」とのことで、中国では家族がみんな集まっ
て、月餅(げっぺい)を食べて祝う日だそうだ。10月1日から国
慶節の連休になるそうで、中国の人達にとって今が一番良い季節な
のかもしれない。ホテルのテラスで滞在中ガイドをしてくれた王さ
ん、耿さんとバイキング式の最後の晩餐を楽しむ。
9月29日(水)
5時起床。仕度して荷物をパッケージして、ホテルを出発。北京
空港へ。
昨夜、台風21号が日本に上陸しそうだというニュースを見て
(北京ではNHKの衛星放送は視聴可能だった)ちょっと心配した
が、それほど揺れることもなく、無事帰国。
東京を経由して長野新幹線で夕方5時半、長野着。
さて、今回の訪中は、北京空港到着から空港を出発するまで、石
家庄市のご配慮により訪問先や日程の調整等をしていただき、さら
に、両市の申し合わせにより滞在期間中の費用負担は、石家庄市の
負担で行われたものでした。
私も石家庄市の訪問は初めてということもあり、多少の不安もあ
りましたが、今回の視察を通じ、文化や社会のシステムが違う両市
がお互いに理解し合い、さらなる友好関係を築くことができたと思っ
ています。
最後に中国で感じたこと(私見)を書かせていただきます。
1.北京は2008年のオリンピックを前に、ここはニューヨーク
ではないかと錯覚するほど摩天楼の街になっている。北京ほどで
はないけれど、石家庄市の発展ぶりも凄まじく、過去長野市の訪
中団に同行して、今回も通訳をしてくれた宮下さんの比較話を聞
いても、目覚しいものがあるようだ。
2.しかし、一歩市街地から離れると、まだまだ貧しく、遅れてい
る地域が多いようだ。この二極分化を克服するのは、難しいと思
う。通訳氏の話でも農民の所得は低いということで、かなり不満
があるようだ。日本でも農村の再建は重い課題だが、中国の方が
もっと大変だろう。
3.公権力とか平等というものの概念が日本と少し違うのかもしれ
ない。石家庄市滞在中はパトカー先導で優先的に通行していく。
我々は申し訳ないと感じるのだが、中国では当たり前の行為なの
かもしれないし、そのくらいにしなくては、現在のところ行政が
成り立たないのかもしれない。でも、国際化の流れの中で批判的
な意見があるようだ。反面、個が解放されて自由に主張できるよ
うになると、莫大な人口を抱える社会が動かなくなることも懸念
される。
4.都市の交通マヒは、言語に絶する。部分的に所得が増えて自家
用車の時代に突入したけれど、道路整備が追いつかない、バラン
スが悪いのでしょう。
5.北京に関しては、オリンピックまでは勢いがあるけれど、その
後は心配と言う人が多かった。私たちが泊まったホテルはマレー
シア資本とのことだが、昨年のSARS騒ぎで予定通りの収益を
上げていないとのこと。必ずしも一直線では進まない例だろう。
6.故宮・万里の長城・明の十三陵等を視察して、つくづく感じる
ことだが、今観光資源といわれているのは、昔の皇帝の遺産だろ
う。民衆の文化は資源になりにくい、独裁者の存在・横暴が現代
の重要資源になっている・・・。これは日本でも程度の差はあれ、
同じことだろうが、歴史の皮肉を感じる。
7.北京や石家庄市を見るかぎり、右肩上がりの発想をしている社
会だと思う。
8.徹底的なエリート教育をしている姿が、日本にとっては最大の
脅威かもしれない。中学生の交流で、帰国した中学生が一様に彼
らの学ぶ姿勢、集中力にびっくりしている。このことを我々は考
えなくてはならない。訪問した学校は幼稚園から高校までの一貫
教育だが、高校生は全寮制で、7時始業でクラブ活動が終わるの
は夜10時、凄いエリート教育をやっているとのことだった。
以上、2週にわたって中国石家庄市訪問の模様を、私の日記をも
とにお伝えしてまいりました。若干、従来のメルマガとは様子が違
っているかもしれませんし、私見を交えてお伝えした関係で、読み
にくい点もあったかもしれませんがご容赦ください。
今回の訪問にあたり、大変お世話になりました石家庄市の皆様に
改めて感謝を申し上げるとともに、両市の友好関係を築き上げるう
えで大変意義のある訪問となったと自負しております。
2004年9月30日木曜日
友好都市、中国の石家庄市訪問
9月23日(木)から29日(水)にかけて、長野市と友好都市提携を
している中国の石家庄市を訪問いたしました。今週は、この訪問の
前半の部分について、日記帳に綴ったものをメールマガジンとして
お伝えしたいと思います。
9月23日(木)
早朝、成田の日航ホテルで搭乗手続きを行い、バスで空港へ。
JL781便で北京へ向かう。3時間余のフライト。連日の疲れで、
本もほとんど読めず、眠る。
現地時間で午後1時半ごろ北京空港に到着。石家庄市外事辯公室
副主任の王(おう)さんと通訳の耿(こう)さんが出迎えてくれる。
耿さんは、長野に1年、青森に1年、札幌に2年滞在し、生活した
とのこと。結構きちんとした日本語を話すので安心。さらに、長野
市から同行した通訳宮下さんと2人いれば心強い。
空港からバスで移動し天壇公園を視察。私は2度目の訪問のよう
な気がする。明の初代皇帝が造った公園で、五穀豊穣の祈願に使った
とのこと(王宮は故宮博物館になっている)。丸い建物が特徴で、
回廊はぐるりと石塀に囲まれ、手を叩いてみると確かに響きは良い。
全体が広い公園で一部を散策するだけで1時間以上・・・正直疲れた。
通訳の耿さん曰く、「北京での見所は、故宮と天壇公園」とのこと。
再び車で移動。しかし、車の混雑は予想以上。
前回北京に来たのは、1990年のアジア大会開催中に、長野オリン
ピック招致活動の一環で訪れて以来。当時から街の様子は凄まじい
勢いで変わっている。高層ビルが沢山あり、しかも現在建築中で工
事用のタワーがニョキニョキ。ほとんどがマンションかオフィスビ
ルのようだ。北京オリンピックまでは、この建設ラッシュが続くと
の話。
90年当時、北京は自転車天国で、人民服姿がまだ見られたし、
車がこんなには無かった。でも今は綺麗な服を着て自転車も少ない。
北京の市民の所得が上がったが故に、服装も色彩豊かになり、自家用
車が圧倒的に増えたのでしょう。でもインフラとしての道路整備が
間に合わなくて、ラッシュの大混雑になっているのであろう。長野
では今後、自転車を盛んにしようと個人的に思っているのだが、中国
はまさに自家用車の時代に突進しているわけで、ちょっと皮肉な感じ・・・。
中央分離帯のある広い道路の真ん中に、自動車とは対面交通で自転
車専用道路があって、ちょっとビックリ。
久しぶりのラッシュ(移動にのろのろ運転で1時間以上)で疲れた。
夕食のためのレストランへ。華やかな民族衣装で出迎えられる。
美味しかったけれど、王さんと北京の二鍋頭(アルグアトウ)という
強い酒で何回も乾杯したので、かなり酔う。
ホテルは北京市内から、かなり遠いけれど新しい華やかなホテル。
CROWNE PLAZA NORTH BEIJINNG(北京龍城皇冠酒店)。
マレーシア資本で造られ、北京一大きいホテルとのこと。
9月24日(金)
5時起床、6時半朝食。7時半に石家庄市に向けて車で出発。
2003年に北京から石家庄市間の高速道路が完成したそうだが、
それまでは車で8時間以上かかり、当時は長野からの石家庄市への
訪中団は列車で移動していたとのこと。今は2度の休憩を挟んで、
片道4時間余りの車の旅。
途中は柳の木が若干ある程度で、あとはポプラの木ととうもろこ
し畑が延々と続く。同じ光景の連続であまり景色が良いとは言えな
い。多分高速道路ができた当時、ポプラの木が植えられたのだろう。
成長の早い木だけにすっかり林になっている。
北京を離れるに従い、大型のトラックやトレーラーが多くなる。
走っている車はドイツ製が多いように感じる。
広い平原の真ん中を高速道路が走っているが、日本みたいに高速
道路を横断するトンネルや高架橋が見えない。ということは高速道
路ができた当時、地域が分断されたんだなあと思った。また、周り
の細い道路は全く舗装していないので、これからまだまだインフラ
整備が必要なんだなあと感じた。橋は架かっているが、水の流れて
いない大きな川が何本もあった。水が貴重な国。それでも一度洪水
になると大変なのだそうだが、ちょっと想像できない話だった。
それと天気が悪いというのも2日間で感じたことのひとつ。案内
をしてくださった王さんによると「けっして空気が汚れているわけ
ではない、中国の気象条件です」とのこと。雨は降らなく、風が吹
かない、太陽がスカッと照らない等々、何となくどんよりしている
空は、車の排気ガスのせいではないのでしょうが、春先に日本まで
押し寄せてくる黄砂を思い出させるものがあった。
石家庄市は大きな都市である。市内人口が約220万人、管轄区域
では約950万人とのことで、県クラスのまち(日本とは行政の順番
が逆になっています)が17あり、市内は6つの行政区になっている
とのこと。市の歴史は80年ということで、まだまだ若い市で歴史
はあまり無いとのこと。1968年に河北省の省都になってから、
交通の要衝として発展したまちで、薬、紡績、化学、機械等の産業
が発達しているとのことだった。
まちの真ん中の市役所のすぐそばで、一番新しいホテル・燕春花園
酒店にチェックイン。そしてホテルの一室で、石家庄市人民政府外
事僑務辯公室主任の楊(よう)さん主宰の昼食会。中国式の接待の
仕方と思うが、よく飲み、よく食べる。そして、常に私たちに話題
を提供してくれる。
第34中学校の視察。実際は中学校だけではなく、副校長さんか
らお聞きした話では、幼稚園・小学校・中学校・高校が一つになって
いる、とんでもない大きな学校。生徒数8千人、教職員数500人
と聞いてビックリ。1994年の設立ということだが、それまで公立
の学校だったけれど、投資家を得て、私立の学校に転換したもので、
河北省にも2校しかない英才教育校であり、現在石家庄市で一番み
んなが入りたがる学校とのことだった。まさに民間活力の導入のモ
デルみたいな話。
英語、ロシア語、日本語を主体とした外国語教育が中心のようだが、
あらゆる科目に適応できるようで、校舎は新しく、寮や食堂も完備
している。立派な体育施設や音楽室、大会議室、パソコン教室、理
科実験室等も完備していて、日本で言えば有名私立大学のような感じ。
授業料も高いようで、正確に聞いてはいないが、中学生の授業料だ
けで年間5~6万円以上かかるとのことで、中国の給与ベースから
みればかなりの負担であろう。しかしサッカー場、陸上競技場など、
見ていて羨ましい限り。
日本語教室を覗いたら、10人ぐらいの生徒さんがワイワイやっ
ていたが、私達をみて質問攻め。すごい意欲を感じた。ちなみに
日本語の先生は4人とのことで、長野に留学生で来ていた方もいて、
実に正確な日本語だった。
市役所へ向かい、臧(ぞう)市長さんを表敬訪問。臧市長さんは
53歳。前に吉林省の四平市の市長を務められていたようで、
その市と須坂市が友好都市提携をしていたとのこと。
会談では臧市長さんから「石家庄市と長野市は、友好都市提携以
来23年間、訪問団の交流、研修生の受け入れ等を通じて、友好
関係を深めてきた。特に民間交流という面で元市会議員の千野さん
が白桃の栽培法を教えてくれたこと、直富商事の木下社長が希望小
学校建設費の一部を寄付してくれたことに大変高い評価をしており、
お2人に石家庄市の名誉市民の称号を差し上げた」と報告。続いて
石家庄市の発展について話があり、今後も長野市との友好関係を発
展させたいという観点から、4つの提案があった。
1.経済・貿易面で中国はWTO(世界貿易機関)に加盟したので、
今後両市の企業間の交流を強めることが可能ではないか。
2.文化・教育面で、毎年の中学生の交流は意義がある。石家庄市
としても中学生の派遣、学校間交流、教師交流を行いたい。
3.スポーツ面の交流。2008年北京オリンピックが開催される。
スポーツは国境を越えて人々の交流を促進する。石家庄市も
市民スポーツが盛んなので、ぜひスポーツ交流を促進したい。
4.民間交流を一層盛んにしたい。日中両国は近い国、連携を深め
たい。
私からは、日本は現在、人口減の時代を迎え、あわせて地方分権
の流れの中にある。国も全ての市町村も、新しい仕組み作りに悩み
ながら取り組んでいる。石家庄市のように前進・発展を前提にした
都市は羨ましいというような認識を話すとともに、臧市長からの4つの
提案については、私としても非常に興味深い内容だったので、担当
の部門で今後実現に向けての検討を始めたいこと、そして最後に今
後も両市の友好関係は是非発展させたいと答える。
その後、臧市長さんの公式レセプションということで、夕食にご
招待いただく。中国人は、声が大きく、よく喋るというのが印象で、
乾杯は聞いていたとおり、中国式でなかなかきついものがあった。
中国を代表する銘酒「茅台酒」(マオタイ)で乾杯。50度以上の
アルコールを一気に飲み干し、お互いに飲んだグラスの底を見せ合
うのは大変だった。
食後、石家庄市芸術学校の生徒さんの舞台を観せていただく。学
校の生徒さんということで、観る前は素人芸かと思っていたが、全
くの認識不足、まさにプロ集団という印象。15歳前後の若い人が
多く、人気のある芸人もいるようで、劇場は満員だった。生徒さん
達が入り口で並んで、私達一行を熱烈歓迎してくださり、舞台で挨
拶したり、写真を撮ったり、そして素晴らしい芸を見せていただいた。
何かの折、長野市へ招待できたら素晴らしい。こんな歓迎ぶりは、
国賓級でなければ日本ではとても考えられないという印象だった。
9月25日(土)
朝食後、市内視察に出かける。そういえば、石家庄市に到着して
インターチェンジを降りて以来、我々の乗っているバスの前を常に
パトカーが先導して移動した。交差点付近には常に警察官が待ち構
え、スムーズに通してくれる。郊外の県区域に出ると、さらに1台
地元のパトカーが先導するという状況だった。車のラッシュは、
かなり激しいので予定どおり移動するためには仕方ないとの説明
だったが、混んでいると逆の車線に入って走ったり、前に車が走って
いると強引によけさせたりして進むのは、ちょっと怖いし、申し訳
ない気持ちになってしまう・・・・。
市街地を抜けて、石家庄市管轄のらん城県(らんの字はパソコン
にありません)に入り、神威という漢方薬の製造会社を訪問。昨日
の臧市長さんが、石家庄市の産業の中でも最初に取り上げたのが製
薬産業だったけれど、確かに我々の漢方薬のイメージを一新する大
きなオートメーション工場だった。らん城県の外事辯公室の女性主
任が挨拶。行政関係者が企業視察に付き合うというのも不思議な世
界。この県は地質が良くて、薬や農作物の生産、そして街づくりに
力を入れている、素朴な人が多い等、県の宣伝をしていた。
この会社社長の李(り)さんの案内によると、漢方薬の研究と生
産をしている会社で、国のモデル工場に指定され、肝臓や心臓の薬、
それも錠剤、ソフト錠剤、そして注射液を作っているとのこと。
他省にも薬草の生産基地があり、国際化、産業化を目指して人材を
大切に現代的漢方薬、新製品を作っている。老人用、幼児用、抗生
物質でも国内最大の生産で、人類の健康に貢献しているという高い
理想を掲げていた。確かに清潔で素晴らしい工場という印象。
続いて趙県へ。趙州橋を視察。1500年前の石造りの橋、当時
の技術では大変なこととの話。昔は近辺にあまり橋が無く、アーチ
式に作られたこの橋は、南北を結ぶ貴重な交通の要衝として古来有
名だったとのこと。設計した李春という人の銅像も立っていた。
そばには8仙人の像(新しいもの、日本に伝わったら七福神になっ
た?)があり、観光地の一つらしい。その後、柏林禅寺へ。大きな
お寺、金ぴかの仏様、1万体以上の仏像が並んでいる。
石家庄市の市街地に戻って、餃子専門店で昼食。6種類の餃子を
ご馳走になった。案内の王さんは、餃子を作るのが上手で、いずれ
長野で餃子の店を開きたい・・・と言っていた。
午後は河北省博物館。紀元前500年頃の中山国(約300年続
いた国)の遺跡、2千年前の漢時代の遺跡、そこからの出土品を見
る。次に石家庄市農業科学技術園へ。まだ未完成の施設だが、観光
と農業を結びつける施設で、野菜の水耕栽培や果物、そして胡蝶蘭
のような花の栽培は、大いに参考になった。
夕食はテレビ塔へ移動。入り口で10月初旬長野市を訪れる「石家
庄市新聞文化代表団」の皆さんが出迎えてくださる。団長の栗建華氏
は、中国共産党石家庄市委員会の常務委員(兼宣伝部長)ということ
で、石家庄市ではかなり偉い方。テレビ局の局長さん(女性)、石家
庄市日報総編集局長等、訪日メンバー全員揃う。
テレビ塔を視察。かなり高い塔で、途中東京のホテルニューオータニ
と同じような回転レストランがある。でもあまり高い所は好きでは
ない。その上の階のレストランで夕食。中国流の乾杯(カンペイ)!
乾杯(カンペイ)!で参った。食事の途中、石家庄市チャンネル1と
いうテレビで、昨日の臧市長との会見の様子が放映されているのを見る。
今回は、訪中前半の模様を私の日記をもとにお伝えしましたので、
いつもと様子が違っているかもしれませんがご理解ください。次週は、
訪中後半の模様をお伝えします。
2004年9月24日金曜日
長野市と石家庄市の交流について
このメルマガを自宅で書いていますが、皆様に配信される9月24
日、私は北京から石家庄市へ移動しているはずです。本当は中国で
メルマガを書いて、配信したいと考えたのですが、通信状況がちょ
っと不安ですので、失敗して穴があいてしまうと困るということで、
事前に用意したものです。
9月22日、9月市議会定例会終了後、成田空港の近くで宿泊し、
翌日北京空港へ向かう予定です。通信状況がよければ(これは私の
能力も含めてのことですが)来週のメルマガは日記風に送らせてい
ただきたいと考えています。
今回、訪問する石家庄市と友好都市提携をする以前の昭和34年
3月に、アメリカのクリアウォーター市と姉妹都市提携をしていた
ことは、すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、石家庄市
と長野市の友好都市提携は、昭和56年、柳原市長さんの時でした。
当時は昭和53年の日中平和友好条約締結が刺激になって、日中友
好親善ムードが高まり、中国との友好都市提携の気運が盛り上がっ
ていきました。石家庄市との友好都市提携のきっかけは、長野県と
河北省が友好協定を結んだこと、石家庄市は河北省の省都であり、
地理的、気象的に長野市と似通っていることなどから選ばれたよう
です。
友好都市提携以来、両市の交流事業は順調に進展してきたといえ
ます。すなわち、相互に訪問団を派遣するなど、人的交流を中心に
友好親善を深めてきており、長野市からは毎年中学生を派遣、5周
年、10周年、15周年、20周年といった節目の年には市民親善
訪中団を派遣してまいりました。石家庄市からの訪問団は、農業、
経済、教育等の視察団の派遣、そして語学、医学の研修生など、今
年までの23年間で92団、約700人の方々が長野市を訪れてい
ます。
長野市から毎年派遣される中学生は、出発前と帰国後に、市長に
会いに来てくださいます。その帰国後の報告で子供たちは、歓迎を
受けたこと、楽しかったこと、異文化への驚き等は当然として、異
口同音に石家庄市の中学生の勉強ぶりについて、そのひたむきさ、
そして凄い集中力に感心した、しっかりしないと負けてしまうとい
う感想を述べていて、いつも中国の凄さを感じさせられています。
石家庄市は人口900万人近い大都市ですから、競争も激しいので
しょう。しかし、長野市の中学生が一様に刺激を受けて帰国するこ
とを嬉しく感じながら「日本は大丈夫か?」といつも思わせられて
います。
動物交換も行われました。昭和60年、石家庄市からレッサーパ
ンダが長野市に贈られ、現在も篠ノ井の茶臼山動物園の人気者です。
長野市からは、チンパンジーを贈りました。
私は市長就任以来、約3年が経過しますが、まだ一度も石家庄市
を訪問していません。。昨年春、石家庄市で論壇(意見を論述する
場)が行われるということでご招待いただきましたが、例のSARS
(重症急性呼吸器症候群)騒ぎで中止になってしまいました。今回、
長野県日中友好協会の皆さんや市会議員さんたちの強いお勧めをい
ただき、また、石家庄市の臧(ぞう)市長さんからもご招待いただ
きましたので、訪中が実現したわけです(私も何度か中国へは行っ
ているのですが、石家庄市は今回が初めてです)。
20周年の年、臧市長さんがお寄せになった文章がありましたの
で、要約をご紹介します。
「20年来、たゆまぬ友好交流の発展の中で、両市は各分野にわ
たり、素晴らしい成果を収めることができた。私たちは忘れません。
研修を受け入れてくれたことを。動物交換をしたレッサーパンダと
チンパンジーの子孫がそれぞれの地で元気に繁栄していることを。
石家庄市の希望小学校の建設費用を寄付してくれたことを。・・・
20年は長い歴史の中で、ほんの一瞬にすぎませんが、両市民間の
友好交流で培った友好は永遠です」
こんな文章を寄せられた臧市長さんにお会いするのが、とても楽
しみです。
塚田前市長さんから「石家庄市へは、5年に1回ぐらい訪問した
けれど、その度に街の発展に驚かされてきた。大きなテレビ塔があ
るよ」・・・と教えていただきました。
しっかり友好の役目を果たしてまいります。
2004年9月16日木曜日
長野市のスポーツも元気です
8月のアテネオリンピックでは、日本選手の活躍は素晴らしかっ
たですね。眠気を我慢してテレビで応援をした方も多かったでしょ
う。長野市からの参加は、ユースキャンプに1人だけでしたが、将
来、市民の中から多くのオリンピック選手を送り出したい、そんな
思いに駆られました。
オリンピックの陰に隠れてしまいましたが、この夏、長野市のス
ポーツも元気でした。私が分かっている範囲でご紹介します。
今年は、市長室にスポーツで活躍された多くの皆さんが報告に来
ていただいたという印象です。小学生のソフトボールでは、6月の
県大会で「松代ビクトリーズ」が優勝、「豊栄シャインスター」が
準優勝して全日本小学生男女ソフトボール大会にそろって出場しま
した。また、篠ノ井東中学校と篠ノ井西中学校の女子ソフトボール
部もそろって全国中学校ソフトボール大会への出場を果たしました。
この夏、長野市からの全国大会出場者は、分かっているだけでも
18の団体と11名の個人が出場しました。
いろいろな活躍があった中での白眉は、裾花中学校女子バレーボール
部の全国中学校体育大会での全国制覇です。8年ぶり2回目の優勝
とのことですが、本当に素晴らしい快挙です。何事でも全国制覇と
いうのは偉業であります。ぜひ全国大会優勝の常連校となってもら
いたいものです。
県大会で優勝して全国大会に出場するクラブチームや地域のチー
ムの皆さんも、市長室を訪問してくださいました。
社会人野球では、北信越大会で優勝したNTT信越硬式野球クラ
ブの都市対抗野球大会への出場も嬉しい出来事でした。私も始球式
を兼ねて東京ドームに応援に行かせていただきました。相手の豊田
市はトヨタ自動車の企業チームで強豪でしたが、一瞬「勝った!」と
感じさせる展開で大健闘でした。試合は残念ながら負けてしまいま
したが、間違いなく来年は、全国大会で勝利する実力はあると思い
ます。
クラブチームが活躍することは、将来のスポーツの姿を象徴して
いるのではないでしょうか。長野市のNTT信越硬式野球クラブに
はNTTという企業名がついていますが、県内の企業から選手が沢
山参加している純粋のクラブチームです。長野市の職員も参加して
います。都市対抗野球大会には、NTTが中心となって沢山の企業
や個人が、精神的にも金銭的にも援助してくださり、応援団も大勢
送り込んでくださいました。援助が無ければまだまだクラブ運営は
難しい場面がありそうです。壮行会の挨拶で、私は「NTTさん手
を引かないでください」と申し上げました。
サッカーについても嬉しいニュースが入ってきました。長野市サ
ッカー協会代表チームの「長野エルザSC」が9月5日、長野県サ
ッカー選手権大会において3-0で日精樹脂工業(坂城町)に圧勝
して、天皇杯全日本選手権への初出場を決め、9月23日に行われ
る宮崎県対山梨県の1回戦の勝者と9月26日に2回戦を戦うこと
になっています。会場は松本市のサッカー場アルウィンとのことで
す。皆さん応援に行きましょう(私は残念ながら、中国石家庄市訪
問中の予定です)。勝ち続ければ、元旦の国立競技場が決勝です。
長野エルザSCもNTT信越硬式野球クラブと同様、企業チーム
ではなく、クラブチームです。上手な人でエルザに入りたい人は試
験を受ければ可能性があります。既に野球のNTT信越硬式野球ク
ラブが出場した都市対抗野球大会と同じような社会人の全国大会
「第40回全国社会人サッカー選手権大会」に出場するための北信
越大会で優勝を果しており、その意味では県サッカー選手権と併せ
て、今年、二冠達成なのだそうです。そして北信越リーグでも今年
はかなりの確率で優勝すると豪語しており、県内ではJリーグに一
番近い存在と言ってよいでしょう。今後JFL、J2、そしてJ1と
階段はまだ沢山ありますが、もしかすると・・・と思わせる活躍です。
※来週のメールマガジンは24日(金)午前に配信します。
2004年9月9日木曜日
防災訓練が行われました
9月1日は防災の日ということで、各地で防災訓練が行われまし
た。長野市でも昨年までは、毎年同じような内容で行ってきました
が、今年は少し趣きを変え、9月を防災強化期間と定め、全市的に
できるだけ多くの市民の皆さんに訓練を実践していただき、「地域
防災力」の向上を目的として計画させていただきました。
昨年までの防災訓練は、犀川の河川敷等の広場で全市的な催しと
して行われてきました。市民は勿論ですが、消防団の皆さん、消防
署、水道局等の市職員、警察等の関係行政機関に加えて、通信、電
気、ガス、建設等の関係事業者の皆さんにも参加していただき、防
災活動の具体的体験を行ったり、それぞれの連携を確認したり、県
の消防防災ヘリコプターにも出動していただく等、言わばデモンス
トレーションの要素も大きい行事でした。それはそれなりに有意義
な訓練ではありましたが、もう少し地域防災力を養う方法を考えよ
うということで、今回の試みになったものです。
9月4日土曜日の朝、市役所内に災害対策本部を設置し、震度6
強の地震が発生したという想定のもと、本部長(市長)以下各本部
員が集結し、30分後、1時間後、3時間後の3つのケースについ
て、それぞれどんな連携をとり、応急対策を実施するのか確認作業
を行いました。
途中、インターネット上で公開されている総務省消防庁の「防災
・危機管理e-カレッジ」を利用し、阪神淡路大震災の際にそれぞ
れの公務員が何を感じ、どんな行動をとったか、どう行動すべきか
を見ました。大変有意義だったと思います。
※「防災・危機管理e-カレッジ」ホームページ=
http://www.e-college.fdma.go.jp/
本部長の講評を求められましたので、私からは
1.実際の災害に遭った時、今日のように手際よく対処できるかど
うか心配。
2.報道によると、大被害が発生すると全国からボランティアが押
し寄せるようだが、その受け皿をどうするか、検討しておく必
要がある。
3.市民への広報やメディアへの対応をどうするかが、今日の訓練
には抜けているのではないか、の3点を申し上げました。
続いて城山小学校に移動。第二地区の防災訓練を視察しました。
学校の体育館とグラウンドに、自主防災会長さんを中心に大勢の市
民が集結し、各種の実践活動を体験しておられました。炊き出し、
建物倒壊後の救出に使う道具類の使い方、怪我人に対する手当て等
の実施体験に皆さん熱心に取り組んでいらっしゃいました。
皆さんはご存知だったでしょうか、NTTの新しい試みだと思い
ますが、「災害用伝言ダイヤル171」です。大災害時、離れた場
所に居る家族、親戚、友人が心配して一斉に電話をしてくるために、
電話がかかりにくくなってしまうことは良く知られていますが、そ
の解消のために「171」に電話して「無事ですよ」とか「避難所
にいます」とかを30秒以内で伝言しておくと、遠隔地からでも聞
くことができるサービスで、災害時に限定してご利用可能なもので
す。
携帯電話用の「iモード災害用伝言板」もあります。実際に災害
が起きたとき、固定電話のそばにいる可能性は100%ではありま
せんから、携帯電話の伝言板の方が有効かもしれません(今週、猛
威をふるった台風18号の際にもこれらのシステムが稼動しました)。
いずれにしろ、多様な通信手段の確保と新しいシステムの構築は、
災害対策として大変重要なことであります。
さて「災害は忘れた頃にやってくる」と良く言われますが、本当
にその通りだと思います。現在東海地震だけでなく、南関東、南海、
東南海、宮城沖など海溝型の大規模地震はいつ起きても不思議では
ないという状況であり、また政府発表では長野県内を縦断する糸魚
川―静岡構造線(フォッサマグナ)においてもマグニチュード8程
度の地震が今後30年以内に14%の確率で起こるという計算値を
示しております。
加えてNBC(核・生物・化学兵器)やテロ等(現に長野県庁を
爆破するというインターネット上への書き込みがあったとの報道が
ありました)に起因する災害の恐ろしさも指摘され、こうした災害、
危機に対して、直接地域住民の生命・身体・財産の保護を預かる公
務員の実践的な対応力はもとより、危機に際しての管理能力が問わ
れる時代になったと認識しています。
いざという時の対応の成否を最後に左右するのは、結局人間の力
量であり、災害対応の業務を遂行するためには、高度な判断力と豊
富な危機管理に関する知識の蓄積が求められます。大災害時に失敗
するのは「想像力の欠如」によるものが多く、大災害であればある
ほど、情報が入ってこないということは、阪神・淡路大震災でも明
らかです。少ない情報しか得られないあいまいな状態のなかで重要
な決定を下し得るのは、非常時の想像力です。
米国では、大災害時の対応行動の決定には、一つの原則があり、
普段から責任ある人はこれを常に頭に叩き込んでおくべきだとされ
ているそうです。
1.疑わしいときは行動せよ。
2.最悪事態を想定して行動せよ。
3.空振りは許されるが、見逃しは許されない。
こういう原則を踏まえながら、想像力を発揮する、ということが
大災害時には必要であります。その想像力は、常日頃からの問題意
識の蓄積により養われるものだということです。
2004年9月2日木曜日
信州大学・長野市の連携協定が調印されました
8月27日(金)夕方、信州大学・長野市連携協定調印式が行わ
れ、信州大学側からは小宮山学長、藤沢副学長、白井理事、赤羽教
育学部長、野村工学部長、事務局の方々が出席、長野市側からは市
長、両助役、教育長・両教育次長、企画政策部長、そして事務局が
出席しました。
この連携協定は、信州大学と長野市が包括的な連携のもと、文化、
産業、医療、教育、学術等の分野で相互に協力し、地域の発展と人
材の育成に寄与することを目的とするものです。
式では、この協定調印に至るまでの経過について長野市側から説
明をした後、学長と市長が協定書にサインし、固い握手を交わしま
した。
小宮山学長さんからは、「国立大学は独立行政法人になって生ま
れ変わりました。大学は地域との連携、密着を大切にし、協力関係
を構築していくことが重要であると考えています。信州大学の持つ
ノウ・ハウを地域行政に役立てていきたい」といった趣旨の挨拶が
ありました。
私からは、「現在も信州大学とは文化、教育、学術、街づくり等
の各分野にわたり協力関係を保っているが、今回の包括的な協定締
結によって、さらに魅力と活力のある都市づくりを進める上で、学
生の教育のみならず、情報や研究開発能力など、蓄積されている信
州大学の多様な英知が、今後の施策全般に大きな可能性をもたらし、
まちの活性化に大きく寄与していただけるものと非常に期待してい
る」と申し上げました。
具体的には、中心市街地の活性化に向けての事業協力や、公開講
座の開催等の生涯学習の推進、NPO等市民公益活動団体への支援
・協力・・・合併で大きくなる新市の経営に関するアドバイス等が
期待されると考えております。
従来からの信州大学と長野市との関わりについて主なものを記し
てみますと、
1.産学行連携支援施設建設事業―――現在工学部内に建設中。平
成17年4月オープン予定。企業の研究開発活動を推進し、新
技術、新製品の開発拠点となる先端テクノロジー分野に対応す
る施設。
2.ナノサイエンス産業都市構想―――中心市街地の遊休施設を大
学機関が利用して、まちの活性化を図る。ナノサイエンスビジ
ネスの地域産業を育てる等、非常に大きな将来構想プロジェク
ト。
3.教育学部との連絡協議会の設置―――長野市の教育の発展と教
育水準の向上及び教員養成の充実等を目的として、平成14年
4月に設置。
そのほか、長野市の附属機関(審議会・委員会等)への参画、市
民公開講座、コミュニティカレッジ(専門職従事者の再教育)構想、
出前講座、教員志望者の教育実践、環境学習会、歴史的遺構確認調
査など、いろいろなところで協力関係が築かれています。
調印式終了後に1時間程度の懇談が行われ、大学側からは松本市
で行われている熟年体育大学の話、長野市側からは、スポーツを軸
としたまちづくりということで地域スポーツクラブの育成、市立高
校との連携、合併に伴う長期計画策定への参画の可能性や増加する
宿泊施設のセミナー・合宿等への利用を打診しました。研究の余地
がありそうです。
また、本年度開催されるスペシャルオリンピックス(SO)への
ボランティア参加をお願いし、快諾していただくなど、いろいろな
話題で懇談させていただき、大変有意義な会合だったと思います。
長野市とすれば、大学の知的資源を行政のあらゆる場面で利用さ
せていただきたい。特に長野市が独自のシンクタンクを作るという
のは財政が厳しい折、困難ですが、大学の協力をいただければ、行
政の行う施策に大きな効果を期待できそうです。
大学としても少子化の時代の厳しさは勿論ですが、経営的にも国
の組織から独立行政法人に変わって、可能性は広がったとはいうも
のの、独自経営の責任も出てくるわけで、実績をあげる必要性、特
色ある経営の必要性、そして地域と密着した経営の必要性、を強く
意識しておられるようです。
信州大学は、キャンパスが県内に分散していることから、過去
「たこ足大学」と言われたこともありましたが、現在は逆に分散し
ている強みが出てきているのではないでしょうか。長野市には教育
学部と工学部があることは、皆さんご存知ですが、今度の包括協定
を結ぶことで、長野市とすれば頼もしいパートナーができたと思っ
ています。
さらに長野市には、私立の清泉女学院大、国立長野高専もありま
すし、短大もあります。長野市は大学が足りないので、若者が少な
いと言われてきました。確かにそのことは否定できません。しかし
現段階、インターネット大学院の計画も含め、高等教育機関が少し
ずつではありますが、充実してきているという実感があります。
今後は、豊かな自然と近代的な都市部が調和する長野で学ぼうと
いう学生さんが増えていくのではないでしょうか。
2004年8月26日木曜日
長野の夏、賑やかなイベント(祭り)
今年の夏は本当に暑かったですね。でも、ようやくお盆を過ぎた
頃から涼しくなり、一陣の風に、何となく秋かな?なんて感じるの
は、私だけではなさそうです。固いメルマガが続きましたので、今
回は長野の暑い夏を振り返り、一連のお祭り等について気楽に報告
させていただきます。
マクロ経済の好調が言われていますが、地域経済にまでなかなか
回って来ない、本当に厳しいです。でも、何とか元気なまちをつく
りたいということで、行政もいろいろな仕掛けを用意していますが、
市民の皆さんが、それぞれの地域や団体で役割分担をしながら、工
夫して頑張っていただいていることに感謝しながらの報告とさせて
いただきます。
長野市は広いです。そして地域には昔からの伝統の祭りも多くあ
り、市長が全てに出席したり、調べることは到底できません。でも
知り得る範囲で、なるべく多くの市民の皆さんの活動を報告するこ
とは、意味があると考え書かせていただきました(順不同で、気が
付いたままに書かせていただきます)。
「まつしろ薪能」 7月24日(土)
エコール・ド・まつしろの松代城復元「夏祭り」として行われた
松代城での薪能は、新しい試みではありましたが、1,500人以
上の観客が集まり、大変な盛況でした。一時は雨が降るかもしれな
いと主催の役員さんはかなり心配していましたが、観世榮夫さんと
いう最高の役者をお呼びできたこと、そして松代町の皆さんの能に
対する思いも重なって、素晴らしい幽玄の世界に皆さん浸っておら
れました。善光寺所有の能舞台をお借りできたことも、新しい時代
の善光寺と松代の協力関係に結びつけば良いなあと感じています。
「篠ノ井合戦まつり」7月31日(土)
篠ノ井駅前通りを埋め尽くした踊り手と観客、びんずるのお囃子
に乗って、元気に踊りました。篠ノ井では年間を通しての一番の人
出だそうです。
「若穂ふれあい踊り」7月31日(土)
ここもびんずる囃子に乗った踊りです。篠ノ井のお祭りと同じ日
でしたので、私は出席できませんでしたが、皆さん祭りを大いに楽
しんでいたという事をお聞きしました。
「大豆島甚句まつり」7月31日(土)
ここも同じ日でしたので、私は出席できませんでした。来年はぜ
ひ出席してみたいものと考えています。
「長野びんずる」8月7日(土)
例年のごとく、盛大に行われました。昼間の子どもみこしは、各
地でみこしを新調したこともあって、みんな張り切っていたようで
す。夕方、善光寺本堂での採火式から、華やかな行列がセントラル・
スクゥエアまで行進し、開会式が行われた後、大火釜に点火され、
火送り衆によって各火釜に火が配られ、祭りがスタートしました。
昨年とコースが若干変更され、踊る時間も短くなりましたが、午後
7時から午後9時まで、中心市街地は踊りの熱気に包まれました。
今年のもうひとつの特徴は、この1年間に長野を代表して活躍さ
れた方に、プラカードを手に行列の先頭を歩いていただき、開会式
の壇上で皆さんに紹介させていただいたことでしょうか(以前にも、
ノルディック複合の荻原選手が歩いたことがありました)。
今年の登壇者は、建築家・宮本忠長さん(平成15年度日本芸術
院賞受賞)、スノーボーダー・山岡聡子さん(スノーボードワール
ドカップ2004種目別総合優勝)、長野吉田高校2年生・諏訪部
和也さん(エアロビクス世界選手権ユース男子シングルの部優勝)、
ガーデニング・石見清さん(全国ガーデニングコンテスト2003
最優秀賞受賞)、そして今年のスペシャルオリンピックス国内大会
で活躍し、来年2月から3月に長野で開催される世界大会での活躍
が期待される方々でした。
本当は昨年夏の甲子園に出場した長野工業高校野球部の生徒さん
にもと思いましたが、既に卒業しておられて無理だったようです。
他にも活躍された方がいらっしゃるかもしれません。来年もこのよ
うな企画をやっていただき、活躍する元気な市民として皆さんに紹
介できれば・・・素晴らしいと考えています。
「飯綱火まつり」8月10日(火)
飯綱高原・大座法師池の周辺で行われるこの祭りは、今回で37
回目ということで、長野びんずるより3年ぐらい古い祭りです。炎
と音楽、そして水を生かした素敵な火まつりで、当日は平日にもか
かわらず、観光客も含めた大勢の観客にびっくりしました。
「長谷観音の雨乞い祭り三十三献灯」8月9日(月)
昨年は一番肝心な部分を見損なったので、今年は夜9時ごろ出か
けました。最後は三十三の燈籠を下げた棹を倒して、みんなで争っ
て燈籠を奪い合う、なかなか勇壮な祭りでした。
祭りではありませんが、市民会館で行われた「六本木男性合唱団」
と長野の男性合唱団「ZEN」の共演は、楽しい企画でした。女性
合唱団「ユーリカ」の皆さんの応援もあって、市民会館を満席にし
たイベントでした。
このほか、いろいろな全国大会が行われたり、地域の盆踊り等が
沢山あったようで、市民の皆さんもさぞ忙しかったのではないでし
ょうか。そういえば7月18日には、犀川第一緑地で第5回全国伝
統花火サミットも開催され、素晴らしかったようです。
9月以降は地域の秋祭りが行われるシーズンです。伝統を未来に
つなげ、地域が活性化するように、みんなで努力したいものです。
年明けには1町3村との合併がありますから、さらに報告しなく
てはならない祭りが増えそうです。
2004年8月19日木曜日
浅川ダムに関する長野市の意見(その2)
今週は、浅川の治水対策に当たり、長野市が懸念している事項や
関連事業への影響などについてご説明申し上げたいと思います。
1.現段階までに示されている県の代替案について
(1)従来計画のダムが持っていた目的や機能の一部を、上流域に
存在する溜池に持たせることについては、その効果を否定す
るものではありません。しかし、溜池管理者(浅河原土地改
良区)やその水を利用する人々の了解が得られるのか。また、
どれだけの治水(あるいは利水)機能が数値的に可能である
か、住民には全く知らされていません。また、溜池の中には
永禄年間築造・明暦年間築造などかなり古い堤体を持つもの
があり、堤体破壊に起因する土石流発生等の過去の歴史から
その安全性を心配している住民もいますので、県が安全を確
認し発表することは浅川治水と切り離してでも必要であると
思います。
(2)河道外遊水地(県による造語か)については、檀田や田子川
合流点付近での建設案が示されていますが、地元の反対はも
とより、特に檀田の場合、住宅地に近接して建設される案で
は傾斜地ということもあって安全性に大きく問題があり、土
地の高度な利用や農業など生産活動が可能な地域での設置は
不可能だと、私は考えています。
(3)河道内遊水地で洪水調節を期待し河川をせき止める施設とし
て、穴開きダムが発表されています。国内には白川水系立野
ダム(建設中)など同様な事例が他にもあると聞いています
が、ダムサイトに造られる施設では、従前のダム計画と比較
し、治水効果やその大きさに対応した効果の差異、安全性等
について住民に早急に説明をすべきであり、発表された約
30mの高さは、実質ダムです。これを含めて過去にダム建
設に賛成した、あるいは反対してきた住民に対し、県は説明
をきちんと行いその責任を果たすべきであります。このこと
は検討中だと前置きをしつつも提案した案が、単なるリップ
サービスだったという批判を受けないためにも、河川管理者
に課せられた責務のはずです。
(4)そのほか、水田を利用するとか緑のダムとかは、一定量まで
の流出を抑制する機能しか認められず、住民や識者の失笑を
買いました。さらに、河川改修案として既に浅川に架かって
いる橋の幾つかを持ち上げて流下能力を高める、堤防のかさ
上げをする、あるいは河床の掘り下げとそれに伴う護岸の補
強などの案は、住民や流域自治体の猛反対を受け、すっかり
影を潜めてしまいました。これは、県のダムに替わる治水方
針の樹立がほとんど不可能に近く、非常に難しいということ
を意味しています。
2.今後考えなくてはならないこと
7月中旬の梅雨前線末期の活動による新潟県五十嵐川・刈谷田川・
能代川等の破堤による水害は、基本高水は絶対に下げられないとい
う教訓になりました。もしかすると、最近の異常気象を考えると、
もう少し治水安全度のレベルを上げなくてはいけないのではないか
と思わせるほどです。
基本高水や治水安全度を下げることでしか攻め口を無くしてしま
っているダム反対派の人々に対しては、この現実をよく考えてもら
いたいと思っています。この被害をみて、既往最大で良いとの主張
は完全に根拠を失ったのではないでしょうか。
浅川治水における基本高水毎秒450tの設定は、既に建設大臣
(当時)が認可した事項であり、国も引き下げに安易に同意をする
とは考えられませんが、私としても流域住民の安全性や土地の利用
状況、配置されている施設の状況や今後の経済発展等を考えると、
100年に1度の確率で採用された治水安全度は、特に死守すべき
条件だと考えています(基本高水流量の説明については、過去何回
かメルマガで触れさせていただきましたので、今回はあまり詳しく
申し上げることは、避けさせていただきます)。
日本の国土の特徴として、川は急峻な山岳地から平野部に短距離
で流れ下るが故に、平野部における急激な増水や山間部における土
砂崩落・土石流等の危険が常に付きまとっているとのことです。土
砂の流出は場合によれば天井川にもなり、その結果、水害を被る危
険性はどこの河川にもあり得るわけで、そのバランスをとってきた
のがダムや砂防堰堤であります。理屈がきちんとしてダム建設を止
めるのなら結構ですが、既往最大の治水があればよいというのは、
その川沿いに住んでいない似非(えせ)評論家の意見です。
海外ではダムは造らない、あるいはダムを壊しているという事例
を語る人もいますが、それらの意見は国土が持っている特徴の違い
を考慮しない短絡的な意見としか言いようがありません。
もう一つ、浅川ダムは多目的ダムということで、長野市水道局が
水道水を確保するために、県と共同事業者となり、費用振り分け
(コストアロケーション)により分担金を既に支払っているという
問題があります。中止ならお金を返していただくことは当然でしょ
うが、それだけで済む問題ではないはずです。確かに長野市の水道
水は、現段階において足りていることは事実ですが、しかし将来を
考えると二つの点から、ぜひ欲しい水源です。一つは、干ばつや水
源の油混入事故など、もしもの場合、水源は沢山あるほうが危険性
の回避になります。もう一つは、水は高い所から低い所へは自然流
下が可能であり、浅川ダムからの取水は、コストがかからない水源
になる可能性があります。特に蚊里田浄水場への野尻湖水源が不安
定な現在、長野市としては確保したい水源です。
3.新幹線車両基地についての確認書の存在について
平成5年4月26日、長沼地籍に新幹線車両基地を受け入れると
いうことについて、長野市長沼地区新幹線対策委員会、日本鉄道建
設公団北陸新幹線建設局(現、独立法人 鉄道建設・運輸施設整備
支援機構 鉄道建設本部 北陸新幹線建設局)、長野県長野新幹線
事務所(現、長野県北信新幹線事務所)、および長野市の4者で確
認書が取り交わされています。この確認書の合意事項には、地元要
望に対する回答が含まれており、浅川ダム関連についての県の回答
は、
(1)浅川ダムの完成は平成12年頃を目途としておりますが、当
地域の諸状況を勘案し、早期完成に努めてまいります。
(2)浅川改修については、関係者等の協力を得ながら早期完成に
努めてまいります。
(3)以上のことの他に問題が生じた場合には、誠意を持って円滑
に解決するよう双方で協議をする。
となっております。
田中知事による「脱ダム宣言」以降、円滑に解決するための協議も
無く、一方的で、当時確認された事項が守られていないのが事実です。
このまま行けば、北陸新幹線は長野市分だけ完成しない状態となり、
飯山以北から北陸の住民の皆さんに大変なご迷惑をかけることになり
ます。長野新幹線建設当時、軽井沢で立ち木トラストという反対運動
(当時、田中知事もこの活動に参加していました)が行われましたが、
それとは本質的に違い、たぶん土地収用法も適用できない事態になる
可能性があると思います。
また、千曲川左岸の堤防強化については、昨年から国と長野市が共
同で「桜づつみモデル事業」を始めました。さらに、浅川改修は従来
計画に基づいた事業で本年から県が再開することになりました。
行政の長にとって、市民の生命と安全を守ることが最も大切な責務
であるとするなら、安全については無制限に強化をしたいと考えるの
は当然のことです。しかしそれでは経済的負担が大き過ぎますし、技
術的にも不可能と思われますので、一定のところで妥協せざるを得な
いのです。もし、可能な限りの手を尽くしたうえで災害が起きた場合
には、その復旧に全力をあげるのが、社会の仕組みでしょう。
この4年間の長野県の動きは、行政の責任を放棄し、市民の安全度
を値切っていると言えるのではないでしょうか。
脱ダム宣言も、約束した代替案の説明ができないとすれば、結果が
見えない理念だけを発信したことになり、著しい行政倫理の欠如と言
わざるを得ません。要は単なる脱ダム論者の意見の受け売りでしょう。
それに振り回されている私も含め、県民は迷惑千万のはずですが県民
の皆様はどの様にお考えでしょうか。
2004年8月12日木曜日
浅川ダムに関する長野市の意見(その1)
先日、県議会の土木住宅委員会の委員長が長野市役所へお見えに
なり、8月25日の委員会に豊野町長・小布施町長と出席し、長野
市の浅川ダムを含めた治水問題について、思いを語って欲しいとの
依頼を受けました。承諾させていただいた上で、今回はきちんとお
話するべきであろうと考え、担当課と議論する中で発言内容を決め
させていただきました。
まず、7月12日夜から13日にかけ、新潟・福島の両県で豪雨
となり、特に13日には、新潟県の栃尾市で30時間に427mm、
三条市で216mmを記録する激しい雨が降ったことは、自然の脅
威を改めて実感させられました。
長野市の年間平均降水量は940mm前後ですから、栃尾市では
30時間の間に、長野市の年間降水量の約半分が降ったことになる
わけで、これは、浅川ダム建設の際、100年に一度の確率で採用
された治水安全度の計画日雨量130mmを遙かに上回る降雨があ
ったことになります。その後、福島、福井、富山でも水害が起こり、
台風10号の影響で四国でも水害があったことが報道されています。
これらの地域での災害を対岸の火事だと傍観することはできませ
ん。長野にとっては偶然が幸いしたにすぎず、長野地域で同様な降
雨が今後予想されないと断言することはできないのです。長野市か
らも消防局が応援に向かいましたし、ボランティアの方も大勢行か
れたようです。一刻も早い復興ができることを願っております。
ここで浅川治水に関し、その歴史的経過等を踏まえた思いについ
て、申し上げたいと思います。
1.昭和40年代、県は度重なる浅川下流域の水害に対応するため、
河川改修で川幅を広げる案を提示したのですが、川幅が最大で約
81mになるということから、優良農地や家屋が大きく潰れるな
どの理由で、流域住民の了解は得られなかったようです。
2.昭和50年代に入り、県は方針を転換しました。川幅を広げる
ことによって広範な潰れ地と20~30戸の家屋移転を余儀なく
されるということから、反対が多かった当初案を改め、出水時に
洪水調節が可能なダム計画と併せた河川計画を策定しました。ダ
ム計画により新たに家屋移転が必要な一ノ瀬地区等に対し昭和51
年6月ダム建設の説明会を実施した後、同年7月31日にはダム
計画と併せた河川改修計画を策定し、「浅川改修期成同盟会」の
了承が得られました。(ここまでの経緯については、平成14年
9月に田中知事が長野市へダム建設を中止することの了解を求め
て来られた時点で、全く理解はしていなかったと思われます。)
3.昭和52年6月、計画高水流量毎秒350t(基本高水毎秒
450t、ダムカット量毎秒100t)の計画について国の認可
が得られ河川改修工事が開始されました。また、同時に進めてい
た「浅川ダム建設事業全体計画」が平成7年3月31日に建設大
臣の認可を得、浅川治水の全体像がこの時点で確定したわけです。
4.この間、「地附山地滑り災害」により通行不能になったバード
ラインの代替道路として、また、ダム建設により埋没してしまう
「県道飯綱高原浅川線」の代替としてループ橋を含む道路が建設
されたことは、オリンピックの成功につながり、その後の飯綱、
戸隠の発展につながっていると私は思います。
5.一方、ダム建設に反対する人々が主張するダムサイト(ダムを
設置する場所)が不安定だとすることに対し、安全性を確認する
ため、県では権威ある専門家10人からなる検討委員会を平成
11年に設置して検討を加えました。7回の委員会を経て意見書
が平成12年2月22日に提出されました。この意見書では、建
設予定地にはダム建設に支障となる第4紀断層は存在しないとい
うことが確認され、最終的に1人がダムを造ることに反対、9人
が安全性については問題無しと判定し、ダムサイトの土木工学的
な安全性が確定したわけです。
6.長野オリンピック(平成10年)終了後、いよいよダム建設に
取りかかることになり、県議会でダム建設予算が可決され、平成
12年9月19日ダム本体工事の契約がなされ、浅川治水が完成
するめどがたったわけです。
7.その直後、平成12年10月、田中県知事が誕生したわけです
が、知事は同年11月、浅川ダムの「一時中止」を宣言し再検討
を表明されました。さらに、平成13年2月20日、長野県議会
定例会で田中知事により「脱ダム宣言」がなされ、実質的に工事
が中止されたことになります。(浅川ダムは、工事の費用負担は
別として、長野県と長野市の共同事業です。一方の当事者と何の
話し合いも無く、中止できるのでしょうか、契約違反は勿論です
が、少なくとも良識では考えられない話です。)
8.反発した長野県議会では平成13年3月19日、「県治水・利
水ダム等検討委員会設置条例」を提案、可決され「県治水・利水
ダム等検討委員会」が設置されました。ただし、この戦略は、正
当な議論が行われると信じた県議会の失敗でした。なぜなら、そ
の委員会の委員の選任は、県知事の権限ということで、実際任命
された委員は日本の国土や歴史性、河川の特性を踏まえたうえで
治水対策をどのようにすべきかといった哲学を持たない委員、い
わゆる、ダム不要論者が多かったのです(すなわち委員会ができ
た時点で、結論は決まっていたと言わざるをえないと思います)。
9.県治水・利水ダム等検討委員会の下部組織として浅川部会が設
けられ、関係行政機関として私も参加しました。その浅川部会で
の検討の中身は、(1)ダム設置場所付近における、地質とか第
4紀断層などに関連し、ダムは安全か危険か。(2)基本高水流
量が適正か過大か。この2点が主なものでした。しかし、この浅
川部会は、私の見る限りでは建設的で実質的な議論は無く、ダム
肯定派と否定派の単なる主張の場であり、技術論は全くなされま
せんでした。長野県はこの時点で、部会からの要請に応じて資料
を提出する義務はあるはずですが、代替案を出すことと部会の結
論を誘導する立場にはないと主張するだけでした。しかし、県が
技術者としての方針を示さない限り、素人だけで責任ある議論が
できるわけはなく、両派が言い分を言い合うのみに終始してしま
いました(後になって冷静に考えてみると、ダム建設に至る過去
の県の作業内容と手順は間違ってはいないことだけは証明された
ように思います)。
10.浅川部会では13回の部会と1回の公聴会を開催しましたが、
ダム賛成派も反対派も互いに説得することができず、ダム建設に
対する意見をまとめることができないまま、出された意見の特徴
をまとめ、両論併記の報告をするにとどまりました。
11.上位組織である「県治水・利水ダム等検討委員会」では、部
会の意見報告の両論をそのまま併記しただけで、何らのコメント
も示さず、多数決で「ダム無し」を答申しました。最終的に多数
決でも仕方ないとしても、何らかの根拠を示すことが大切ではな
かったのでしょうか?
12.知事は、答申の前提とされた基本高水を下げる根拠が無いの
で、そのまま結論だけを尊重し、浅川ダムの中止を決定したとい
うことです。また、代替案はあると言いながら具体的な内容が無
い「枠組み」しか示されませんでした。こういう結果になるなら
ば、浅川部会において県が具体案を出さないと宣言した時点で、
我々は席を立つべきであったと後悔しております。また、検討委
員会での少数派だったダム肯定派も、ただ傍観すべきではなかっ
たと思います。
13.平成14年7月5日、長野県議会は田中知事不信任案を可決
しましたが、「ダムに替わる案はある」と称して、田中知事は見
事な選挙戦略で9月1日再選されました。しかし再選以降、既に
2年を経過しようとしているにもかかわらず、あると説明されて
いたダム代替案の具体案は示されていません。これは重大な選挙
公約違反(国レベルの選挙で経歴詐称により辞任を余儀なくされ
た方もいらっしゃいますが、それよりはるかに重大な公約違反だ
と私は思います)であり、流域住民は相変わらず水害の危険にさ
らされたままなのです。平成18年度(ダム完成予定年)以降に
災害が起きた場合、県知事はどのような責任をとってくれるので
しょうか?
14.以来2年弱の時間が経過しました。平成16年2月、県知事
は、県議会定例会で従来の制度に基づき認可を得ていた「全体計
画」をよりどころとして、河川改修を進めると発表しました。長
野市としては、流域の安全度が少しでも上がるという意味で河川
改修の再開は評価していますが、これはようやく正常に戻り始め
たと言うにすぎません。要は約4年間、無駄な時間と議論をして
きたということです。
15.さらに言えば、国が河川工事の再開を認可したこの方針は、
(1)新河川法に基づき河川管理者は整備計画をたてる必要があ
るが、暫くの間は既に認可した従来の全体計画に基づいて河川整
備を進めることを認める。なぜなら、整備計画が策定されるまで
何もできないということは現実的でない(洪水はいつ起きるか分
からない)。(2)河川整備を進めるに当たっては無駄な二重投
資など避けるため「大きな手戻りの無い範囲で」進めることを条
件とする。というものであり、浅川の場合は砥川と違い、建設大
臣(当時)が既に認めた旧河川法に基づく全体計画があったとい
うことが工事再開の大きな要因になりました(脱ダムの方針が認
められたわけではありません)。
16.これにより、河川改修の再開に当たっては、ダムを含めて継
続扱いとなっている全体計画の下で河川改修だけを先行して行う
ということですが、そこにこぎ着けるまでの間、市町村や県議会
が国に対して浅川の実情を訴え、交渉と要請をしてきた内容を、
まず国が理解を示し、ようやく県もそれに乗ったにすぎないこと
を是非知っていただきたいと思います。
17.一方、県の治水担当者からは、一時期、新河川法に基づく整
備計画を本年8月までに樹立して国の認可を得ると発表しました
が、どのような理由があるにせよ、他の施設管理者との間で確た
る協議もなされず、治水に係る数値等も確定していない現在、8
月中の認可申請が無理であることは、県知事の発言でも明らかで
す。結局その場限りの発言がまたもや繰り返され、問題の先送り
をしているだけだと考えます。
今週は、浅川の河川改修に向けた経緯を説明いたしました。次週
は、今後の河川整備に当たり長野市が懸念している事項や浅川治水
対策における関連事業への影響などについて、ご説明申し上げたい
と思います。
2004年8月5日木曜日
「カチューシャの唄」知音都市交流
8月1日(日)、糸魚川市で知音都市交流15周年記念事業が開
催され、松代の皆さん45名と一緒に出席させていただきました。
この都市交流は、トルストイの「復活」の劇で歌われた「カチュー
シャの唄」にちなみ、演出家、作詞家、作曲家、女優の出身地が手
を結んだ大変ユニークなもので、島根県金城町(島村抱月の生誕地)、
新潟県糸魚川市(相馬御風の生誕地)、長野県中野市(中山晋平の
生誕地)、長野県長野市(松井須磨子の生誕地)との間で交流を行っ
ているものです。
「知音(ちいん)」という言葉は、親友、知友、すなわち昔から心
を知り合った友人という意味です。この交流は、金城町の社団法人
「活性活性かなぎ」の提唱に基づき、平成2年8月2日、知音都市
実務者会議で、交流の推進を行うことが確認され、以来今日まで相
互の友好関係が築かれてきているものです。
糸魚川市では、相馬御風の記念館や住居(新潟県指定史跡)を見
学し、式典の挨拶の中で私からは松代の宣伝、特に「エコール・ド・
まつしろ」の話をさせていただきました。その後、金城町の安藤美文
町長の記念講演がありました。
金城町として知音都市交流のプロジェクトのスタートを決意し、関
係市を訪問したときの話です。長野市を訪問し、当時の塚田市長に
趣旨を話し、ぜひ賛同して欲しいと申し入れたときの返事は、「松井
須磨子は女性でございます。男性から申し込まれては断るわけには
いきません」とお答えしたそうです。私は初めて聞く話ですが、塚田
市長もしゃれた返事をされたものだと感心しました。その後、塚田
市長が松代の市議会議員であった故中島邦雄さんに、「地元議員と
してこの交流を活発にして欲しい」と依頼し、今日に至っていると
いう事です。20分ほどの短いお話でしたが、大変印象に残りました。
会場ではそれぞれの都市の物産展が開催されていましたが、松代
からは地酒やお菓子、「エコール・ド・まつしろ」のグッズ等が出品
されていました。式典のあと、それぞれの都市のお国自慢を披露す
る文化交流が行われ、松代からは、松代マンドリン研究会の演奏が
行われ、大変好評を博していました。
松井須磨子の生誕地ということで、松代がこの交流を行っていま
すが、今回は彼女のことについて、パンフレットやインターネットで
理解した範囲で触れてみたいと思います。
松井須磨子は本名小林正子、旧松代藩士族、小林藤太の末子とし
て明治19年、埴科郡清野村(現長野市松代町清野)に生まれ、千葉
県木更津の旅館に嫁ぐが離婚。帰京して演劇学校の講師と再婚。夫
の勧めで、坪内逍遥主宰の「文芸協会演劇研究所」へ第1期生とし
て入学。夫と離別後、文芸協会第1回公演「ハムレット」でオフェリア
役を好演、芸名を松井須磨子と名付け、「人形の家」のノラ役で新し
いタイプの女を演じ、脚光を浴びました。
その後、演出家の島村抱月と親しい関係となり、文芸協会を追わ
れた須磨子は、大正2年抱月と共に芸術座を興しました。翌年トル
ストイの「復活」のカチューシャ役を演じ、劇中歌「カチューシャの
唄」が大ヒットし、日本初の流行歌と言われたそうです。また、日本
初の新劇女優でもありました。
6年間で国内外の上演回数は440回にも上ったそうです。しか
し、大正7年、抱月がスペイン風邪による肺炎で亡くなった後、芸
術座の経営にあたっていましたが、大正8年抱月の後を追って芸術
倶楽部で自殺、34歳の波乱の人生を終えたということです。
この都市交流の最後は、参加された皆さんが一堂に会し、地酒を
酌み交わしながら、交流を深めました。さらに糸魚川の港では花火
大会も開催されました。皆さん、既に顔見知りの方も多いようで、
和気あいあい、素敵な交流会だったと思います。
市町村の特色づくり、まちおこしが盛んですが、建物や文化で特
色を出すのは難しい場面もあります。しかし、人を中心に据えてい
くことは、他の自治体ではなかなか真似はできないはずですから、
アイデアとしては、素晴らしいと感じました。
秋に行われる松代の「真田まつり」には、今年は各首長が参加し
て馬に乗ることを約束してくださいました。金城町の町長さんは一
番遠い島根県から、毎年来ていただいて祭りを盛り上げていただい
ていますが、今年はさらに大勢の方が来ていただけるとのことで、
本当に有り難く、この知音都市交流の意義を感じました。
全国で市町村合併が進んでいますが、このプロジェクトを最初に
提案された金城町も来年、隣接する浜田市との合併が決まっている
そうですし、他もそれぞれ進行中だそうです。合併後もこの交流が
継続されることを祈念しつつ、長野市まで帰ってきました。
2004年7月29日木曜日
山歩き、二題
少し前の話になりますが、2月24日(火)に国土交通省関東地
方整備局道路部の皆さんをお迎えして、道路整備に関する意見交換
会を開催しました。
関東地方整備局からは、道路部長をはじめ、地域道路調整官や路
政課長、長野国道事務所長等7名が、市町村関係からは、長野市、
信州新町、豊野町、信濃町、牟礼村、三水村、戸隠村、鬼無里村、
小川村、中条村、大岡村、そして長野土木振興会が参加し、それぞ
れの首長や担当の部課長が出席しました。
国の部長さんから、三位一体改革期の道路整備手法等について講
演をお聞きしました。各首長にすれば、道路整備は現段階の地方の
まちづくりにとって大切な事業ですから、真剣な面持ちでお聞きし、
いろいろな意見交換をさせていただきました。
この中で、関東地方整備局の皆さんにぜひ実情を見て欲しい、と
いう話が持ち上がり、国の課長さん方もぜひ見たいと応じてくださ
ったので、一番整備が遅れている国道406号を見てもらおうとい
うことで、鬼無里村行きが合意されました。
さて、本年度に入って5月18日(火)、国、そして関係首長等
が国道406号などを視察し、鬼無里村に集合しました。
鬼無里村のバスに乗って視察に出発、国道406号の未整備箇所
について、同盟会の会長として要望をしました。さらに、県道小佐
出西京線と奥裾花ダムを視察しながら裾花川の源流へ向かいました。
何年か前に来たことがありますが、その時は道が狭く、バスがすれ
違いできず、延々と時間がかかったことを覚えていますが、現在は
ダム湖の両側に道路が整備され、一方通行になっており、すれ違い
できないようなことはありませんでした。
バスの終点からは、有名な鬼無里の水芭蕉群生地まで歩きました。
奥裾花自然園の中にある81万本の水芭蕉の群生地は、尾瀬より大
きく、日本一を誇っているとのことです。花の時期としては少し遅
かったようですが、それでも水芭蕉の花が一面に咲いており、カメ
ラを抱えた人たちが沢山散策していました。今年の最盛期は5月初
旬だったようです。
それとブナ林もなかなかの規模で、素晴らしい場所でした。以前
信越県境の関田山脈のブナ林の見事さに感激したことがありますが、
鬼無里のブナ林も見事です。ゆっくり散策したら、きっと関田山脈
を上回る素晴らしさを味わえるかもしれません。トレッキングコー
スとしても最高でしょう。また、地元の皆さんに温かいお心遣いを
いただきました。短時間でしたが、関東地方整備局の皆さんには、
長野市から鬼無里村に通じる国道406号の整備の遅れと、鬼無里
村の自然の素晴らしさを認識していただけたと思っています。
話は変わって、6月6日(日)若穂の太郎山の登山に参加しまし
た。地元の皆さんから、「山歩きにお出掛けください」というお誘
いを受け、気楽に出掛けたのですが・・・。
集合場所には100人以上の方が集まっておられたでしょうか。
みんなで太郎山の頂上に向かって歩きはじめました。途中までは軽
自動車なら通れる道でしたが、登山道に入ってからが大変な急坂。
私は簡単なトレッキングのつもりで参加したのですが、頂上に着く
までの約40分間の苦しさ、大変でした。最初は私が先頭を歩いて
いたのですが、後ろから子どもさん達は元気にどんどん追い越して
いくし、大人の人も私が立ち木にもたれて苦しんでいるのを横目で
みながら、急坂をすいすい・・・・。とうとう私は最後尾になって、
役員の方々が心配してくださって、待っていてもらったほどでした。
何とか太郎山の頂上にたどり着くと、役員の皆さんから「太郎山
から城ヶ峰へのトレッキングコースの整備をお願いします」という
要望がありました。トレッキングコースの整備は、お金のかかる話
では無さそうですので、ぜひ私もやりたいとお答えしました。
太郎山の頂上(標高約1000m)から善光寺平を見下ろす景色
は素晴らしいものがありました。前に行った七二会の陣場平からの
景色は、善光寺平を西側から見下ろす景色でしたが、この太郎山か
らの景色は東側からの景色です。ホワイトリングの大きなドーム、
千曲川、そして中心市街地の街並・・・善光寺平一望の景色は、天
気が良ければ遠く飯山市まで見えるそうで、苦労して登ってきた甲
斐があったと思いました。
長野にとって自然が一番の宝かもしれないと感じて以来、「トレ
ッキングをしましょう」とみんなに語りかけてきました。そして七
二会、若槻等を、地域の皆さんと一緒に歩き、目標は善光寺平一周
トレッキングコースを作りたいと主張してきましたが、今回の若穂
の山歩きで目標へ一歩前進したと感じています。でもかなりきつい
山で、「疲れた!」というのが実感です。
2004年7月22日木曜日
プロ野球オールスターゲームが開催されました
7月11日(日)、2004サンヨーオールスターゲームが長野
オリンピックスタジアムで開催されました。当日の朝は雨が降って
心配されましたが、昼からは素晴らしい天気になり、朝の雨が気温
を下げてくれたのでしょうか、素晴らしい野球日和になりました。
このゲームは、長野市が長年待ち望んでいたもので、塚田前市長
の時代から(社)日本野球機構を含め各方面にお願いした活動が
実ったものです。当日、スタンドを埋め尽くした約3万人のお客さ
んを見て、オリンピックの開閉会式以来だなあ!と感激を覚えまし
た。満員のスタンドを見るのは、本当に嬉しいものです。
今年はオリンピックイヤーということで、プロ野球からもアテネに
選手を参加させる都合から、少し開催が早まったようです。第1戦
は名古屋ドームで行われ、6-3でオールパシフィック(全パ)の
勝ちでした。第1戦がドームというのは意味があるそうで、もし屋根
の無い長野で第1戦を予定して雨に降られると順延になる、当然
名古屋の予定も変わらざるを得ない・・・・。なるほどそうなると
オールスターゲームは、2回やるとすれば常にドームが第1戦とい
うことかと変なことに感心してしまいました。
夕刻、スタジアムでは花火を合図に、まず松代の真田鉄砲隊、真
田勝鬨太鼓、槍振り隊、のぼり旗隊が出演して、素晴らしい演技を
披露し、松代を大いに宣伝してくれました。鉄砲隊の撃つ音は、花
火に負けないぐらいの凄い音でびっくりしました。続いてホームラン
競争が行われ、オールセントラル(全セ)が勝ちました。
開会式では、両リーグの選手が、地元の子どもたちとハイタッチ
をしながら、一人ひとり紹介を受けてカッコ良く入場。そして松田
聖子さんが艶やかな着物姿で登場し、国歌「君が代」を歌いました。
私は、地元の市長として、各球団にリンゴを差し上げるという名誉
ある機会をいただき、その目録を全パの王監督、全セの岡田監督に
お渡しいたしました。
王監督は昭和34年当時、投手として早稲田実業から巨人軍に入
団、私も同年に大学入学で在京中だったことを懐かしく思い出しま
したし、岡田監督は大学の後輩です。短い時間でしたがそんな会話
を交わすことができました。
試合は第1戦と違って投手戦になりましたが、パリーグの人気者
SHINJO選手が意表をついたホームスチールで先行、さすがの
パフォーマンスでした。全パはさらに1点を加え、全セは巨人の高橋
選手のホームランによる1点だけ。2-1で第2戦も全パが勝ちま
した。
私は当日が参議院議員選挙の投票日だったため、残念ながら途中
退席せざるをえませんでしたが、市民の皆さんにあれだけ喜んでい
ただけたことで、オールスターゲームを長野に招致できて、本当に
よかったと思います。中央通りのセントラル・スクゥエアでも、大型
画面での野球中継を行いましたが、約1,000人の方が楽しんで
くださいました。
今回のオールスターゲーム開催までの主な経過を少し紹介させて
いただきます。
(1)招致活動は、平成12年4月にオープンを予定していた
日本唯一のオリンピックの名を冠した野球場、「長野オリ
ンピックスタジアム」のオープン記念事業の一環として、
平成12年のオールスターゲームの長野開催を日本野球
機構 川島コミッショナーへ平成8年9月と平成11年
5月に要望書を市長名で提出したことから始まりました。
(2)平成12年5月にオリンピックスタジアムで開催されたプロ
野球公式戦の折、川島コミッショナーがスタジアムを視察。
(3)平成13年6月、塚田市長がコミッショナーを訪問。
「オールスターゲーム長野市開催の要請文」を直接手渡し、
地元マスコミと協力して招致活動を展開。
(4)平成14年のフレッシュオールスターゲームの招致を行い、
7月に開催。
(5)同年、愛媛県松山市で開催されたオールスターゲームの大
会視察を行い、長野市開催招致に向けての準備をすすめる。
(6)平成15年3月、プロ野球実行委員会の開催前に川島コミ
ッショナーを訪問し、長野市での開催について要請を行う。
(7)平成15年3月、プロ野球実行委員会で長野市開催が決定。
(8)平成16年3月、コミッショナーに就任した根來(ねごろ)
氏を訪問し、オールスターゲームの長野市開催決定につい
て御礼を申し上げる。
準備段階で苦労したのは、スタジアムの設備関係です。オリンピ
ックでは開閉会式場として使われましたが、もともと野球場として
造った施設であります。しかし、オールスターという最高の舞台と
してはいろいろ問題がありました。観客収容数が3万人以上必要、
バックネットの支柱が観客の邪魔になる、放送ブースが足りない、
スピードガンが故障している・・・、数え上げたら切りが無いので
すが、可能な限り手直しをして、日本野球機構の了解をいただき、
開催にこぎ着けました。正直かなりのお金が掛かりましたが、今後
も大きな試合を招致するための投資として、ご理解いただきたいと
思っています。
昨今、プロ野球チームの合併・統合の話が浮上してきています。
このまま進展すると、現在の2リーグ制が1リーグ制になるのでは
ないか・・、そうとすれば今年のオールスターゲームの長野開催は、
プロ野球にとって最後のオールスターゲームではないか?なんて話
題にする人もいました。結論はまだ分かりませんが、いずれにしろ
多くの野球ファンの夢が膨らむような解決に導いてほしいものです。
話は変わりますが、社会人野球の最高峰、東京ドームでの都市対
抗野球大会へ、NTT信越硬式野球クラブの2年連続出場が決まり
ました。皆さん応援しましょう。
2004年7月15日木曜日
年金改革に思うこと(その3)
2週にわたり年金問題について書いてきて、たとえ稚拙であって
も、私なりの改革案を書かなくてはならないのではないかと思いま
した。しかし、年金問題を勉強すればするほど私案作成の難しさを
実感させられましたので、今回は年金問題に関する原則的なものを
まとめてみました。決して完璧ではありませんし見当違いの改革案
と言われるかもしれませんがご容赦ください。
さて、年金問題に対する私の考え方の基本は、
1.年金は、高齢者にとってセーフティーネットであること。
2.年金制度は決して払い損でないことを理解してもらうこと。
3.公的な支援は万人に平等であるべきこと。
この3点です。
1.は最低いくらあれば良いかという問題ですから、財政の可能
性も含め、決めればよい話です。2.も若い人が年金を払わないの
は、払えば損をすると感じているからで、それを打破すればよい話
ですから、国が責任を持つと宣言すれば済む話です。
一番やっかいなことは、3.です。万人が平等であるべきという
点は、総論としては賛成していただけるのですが、実際の場面にな
るとあまりにも違いが大きいために、有利な年金に入っている方か
らすれば、とんでもないという話になるのだと思います。
年金には大別して、(1)厚生年金(2)共済年金(3)国民年
金がありますが、(1)(2)に比べ(3)が著しく不利であると
いう印象がありますので、若干比較してみました。
1.厚生年金や共済年金は、会社員や公務員が入る年金で、その人
の所得の約6.8%が給料から天引きされています。すなわち、
40万円の所得に対し約27,000円の保険料となり、結構大
きな金額を納めています。国民年金の場合は、所得に関係なく保
険料として納める制度で、現在は月額13,300円となってい
ます。
2.現在の制度で単純な計算(20歳加入で40年間保険料を払い、
65歳から80歳まで受給した場合)を行ってみますと、厚生年
金や共済年金は受給額が支払額の約2倍なのに対し、国民年金で
は約1.9倍と私は試算しました(現行制度による試算を行った
もので、実際には様々な要因がここに加味されると思いますので、
専門家の皆さんには御不満の声もあると思います・・・)。
3.厚生年金や共済年金では、事業者(企業ないし公共団体等)も
個人と同額を保険料として負担しているのに対し、国民年金の場
合は、今回の年金改革関連法で、国庫負担率を平成21年度まで
に、現在の3分の1から2分の1へ段階的に引き上げるというこ
とが決定しましたので、厚生年金や共済年金の方が 国庫負担が
小さいこと思われます。
4.ただし、国会議員年金の場合は、10年在職で15年間年金を
受給した場合、受給額が支払額の約4.8倍となるうえ、国庫負
担が3分の2もあるというのは、やはり公平さを欠いていると思
います。
さて、具体的に私案を考えてみます。
(1)個人の年金がいくらになるかを検討するとき大切なことは、
過去自分が積み立てた年金保険料に一定の利息を加えた金額
は保障されるべきです(この金額をA円とします)。
(2)65歳が受給開始年齢としたら、その時点で個人が積み立て
た年金保険料とその利息の総額(A)を確定させる。そして、
我々の平均寿命が80歳であると仮定するならば、平均15
年間受給するわけですから、A÷15がその人の年間受給額
の基礎(B)となります。現在受給している方も65歳時に
さかのぼって計算するものとします。
(3)年金は25年加入していないと受給資格が無いことはやむを
得ないことと思います。その代わりきちんと義務を果した人
には、国は必ず報いることが大切です。また、生まれた時か
ら親が子どもの年金保険料を払っても良いと思います。
(4)ここまでの原則は、あくまで個人の積み立て分をはっきりさ
せ、国の責務をはっきりさせることです。
(5)次に、セーフティーネットとして、年金の最低額をいくらに
すべきか、公的資金の投入額をどうするか、という問題です。
これは難しい問題です。きちんとしたデータに基づいた議論
が必要で、個人の負担能力、長期の国家財政状況そして最低
生活費等を勘案して、国が決めるべきでしょう。私の希望的
な数字を言わせていただけば、(B)+(公的年金)の額が、
夫婦で月額15~20万円ぐらいになれば、セーフティーネ
ットとしては、合格ではないでしょうか。
(6)さて、公的資金の原資をどう確保するかですが、それは今後
50年間ぐらいの財政状況、人口動態を検討して国が決める
べきです。消費税を年金会計に入れるのは有力な案です(小
泉首相が自分の任期中は、消費税を上げないと宣言したこと
は、消費税を年金に入れようということの議論を止めてしま
ったという意味では問題でしょう。確かに景気のことを考え
ると、今、増税のことを話すべきではないということも分か
りますが・・・)。ただし、大切なことは、危機的な年金会
計のバランスを取り戻すこと、公的支援金額は本来全国民が
同じ金額であるべきだということです。現役中にたくさん保
険料を納めている方は、私の案でもそれなりに(B)の部分
が多いはずですから、悪平等ではないはずです。
(7)もうひとつの重要なテーマは年金の一本化です。一本化の必
要性は大部分の方が認めていることです。しかし、実際に一
本化の具体論をやると、損をする人、それも年金が相当減額
される人が出てきますので、その人たちの説得に時間がかか
るでしょう。でも、年金会計は待ったなし破綻寸前ですから
早急に取り組まなければならない重要なテーマです(将来に
わたった詳細な赤字額を試算し国民に公表すべきだと思いま
す)。この問題については、あまりにもいろいろな制度が混
在しているために、調べれば調べるほどその難しさが分かり、
残念ながら一本化についての私案を作ることができませんで
した。
稚拙な考え方をお話しました。自分でも整合性が足りないことは
承知しています。全てのことを考えるのは、情報もありませんし、
制度を全て知っているわけではありませんので、基本的なことだけ
考えてみました。実務的に不可能、あるいは政治的に不可能という
こともあるかもしれません・・・・・・・。
年金の制度を改めるということは、現在すでに受給している人に
とっては、導入する公的資金の金額によって、受給額が減るのでは
ないかと心配されるでしょうが、一時的な激変緩和処置は別枠で考
えるべきであって、根本的な改革をしない限りどうにもならないと
私は感じています。また、受給資格者で年金以外の収入が多い方も
いらっしゃいますが、その方々に対する減額はやむを得ないのでし
ょう。
若い方が年金を払わない理由は、払えば損をするという考えが一
因になっているはずですから、やはり年金は得するものだ、少なく
とも損はしないということをベースに、信頼を取り戻す必要がある
と思います(早く亡くなった方については、遺族に対する給付の見
直しという考えも必要かもしれません)。
具体的に議論することがどうしても必要です。議論のための分か
りやすい数値を示してほしいものです。
2004年7月8日木曜日
年金改革に思うこと(その2)
前回のメルマガでは、年金制度が抱える課題(高齢化と団塊世代
の引退)、世代間助け合いの原理、バラバラにスタートした年金制
度・・・等について、(Ⅰ)~(Ⅲ)として私見を述べさせていただき
ました。今日は前回指摘できなかった問題点を、もう少し指摘した
上で、ではどうするか・・・・を書いてみたいと思います。
(Ⅳ)運用を間違えたのに、責任をとらない
年金制度には、国民の怒りをかっている問題がもう一つあります。
年金として集めたお金の運用を間違ったことです。
公的年金の積立金を使い、全国に建設された大規模保養施設「グ
リーンピア」や厚生年金福祉施設などがその例です。この計画が立
てられた70年代は、年金財政が今ほど厳しくなく、自治体も地域
活性化のために誘致を進め、政治家も後押しをしてきたのです。
しかし、その後の年金財政の悪化とバブルの崩壊により、累積赤字
が膨らみ経営難に陥りました。
バブル崩壊で不動産会社やレジャー関係に投資した会社は大部分
大損しているのですから、ある程度は仕方ないと言えるかもしれま
せんが、民間会社の場合は倒産したり、経営者交代により責任をと
らされケジメをつけているのに、年金資金を使ったこれらの施設の
破綻には、政治家や官僚を含め誰も責任をとったという話を聞いて
いません。
その外にも、保有株式の値下がりや含み損といった問題もあり、
結局は国民の税金で穴埋めせざるを得ないということなのでしょう
か。もちろん何らかの資金運用をしない限りお金は増えませんので、
多少のリスクは仕方ないのですが、これらの問題は、年金資金を本
来の目的以外に流用することの危うさを教訓として残しました。
余談ですが、私はバブル崩壊による土地の急激な値下がりは、一
種の国家犯罪だと思っています。確かに日本の土地価格の異常な値
上がりは大問題でした。でも国も税収があがり、その恩恵をかなり
受けていたことは事実で、その時赤字国債を返済するとかの引き締
め政策をすべきだったのでしょう。ところが、国も民間と一緒にな
って有り余る税収を使うことに専念し、一方で極端に土地いじめを
行った。土地神話の崩壊が起きたのです。
住宅金融専門会社(住専)問題の時、住専から金を借りて大儲け
した後、土地が値下がりして返済できなくなった社長が、証人とし
て国会に呼ばれ、土地価格の急激な値下がりは国家犯罪だという意
味のことを言っていましたが、私は妙に共感を覚えた記憶がありま
す。
(Ⅴ)制度設計の誤算
もうひとつ、制度のスタートに当たって根本的な誤りがあったの
ではないでしょうか?
公的年金の制度改正は、国立社会保障・人口問題研究所が公表す
る将来の人口推計に基づいて行われます。ところが、その推計で出
生率が将来どこまで下がるかの見通しが常に甘すぎたうえ、日本人
の平均寿命が急激に伸びたことにより、年金制度は少子高齢化への
対応が遅れてしまいました。
もちろん、長寿者が増えたこと自体は素晴らしいことであり、日本人の
生活習慣や健康志向、医療制度や社会福祉制度が格段に進歩したこと
の証明ではありますが、年金制度の運用が実態に即していなかったこと
が、制度設計という面からいえば、大誤算となってしまったのでしょう。
また、終身雇用、年功型賃金体系の崩壊など、常に所得が増える
時代ではなくなったことも誤算の一つかもしれません。
以上、問題点の羅列はこのくらいにして、年金一本化の話に移り
ましょう。
年金を一本化するという総論は、多分大部分の人が必要だと感じ
ていると思うのですが、各論に入るとどうしようもなく、難しい、
利害関係が生じるのです、でもやらなくてはならない・・・・。
税金で賄うと言っても、財政悪化問題は別にして、過去の負担の不
公平をどうするか、現在受給している高齢者層をどうするか・・・・
簡単には解決できない、解けない方程式を解こうとしているように
思えるのです。
決定した年金改革を批判することは簡単です。でも一本化という
だけでは何も解決しないので、具体的な施策で、ぜひ納得のいく再
改革を望みたいものです。
年金改革はやらなくてはならない大きな問題なのですが、でも難
しい問題であることは、ご理解いただけたと思います。今回決まった
年金改革は国民に大きな負担をかける内容ですが、通過しなくては
ならない一つの過程かなと思っています。でも根本解決にはほど遠い
内容でしょう。
今回で年金改革については完結させる予定でしたが、年金問題に
係るさまざまな問題点を述べているうちに、ついつい長くなって
しまいました。そこで、来週、年金改革に係る私案を掲載させてい
ただきたいと思います。
2004年7月1日木曜日
年金改革に思うこと(その1)
今回の参議院議員選挙で、問題になっている年金改革の本質は何
か、これが争点だと言われながら、意外に分かっていないのではな
いか?即ち「国会で新しい年金法が決まった、でも国民に大変な負
担を押し付ける法律だ」ということ。そして新しい法律が成立した
ばかりなのに、これから一本化の話し合いをする。非常に分かりに
くいというのが、実感ではないでしょうか。テレビなどで政治討論
会を聞いても、年金選挙だというばかりで具体論が何も出てこない。
根本的には財政改革の話につながることは分かっているのですが、
政治家の未加入・未納があったり、一旦合意したにもかかわらず、
その後すぐに反対したり、強行採決したり・・・。国民がきちんと
理解しているかどうか、いや国民というより役人を含む地方の政治
家だって、本当のことは分かっていないのではないでしょうか。首
相の発言だって、国民が本当に分かるようには話していない・・・
と私は感じています。
今日はこの問題について、素人の私が理解した範囲で、2週にわ
たり書いてみたいと思います。
(Ⅰ)年金制度が抱える課題(高齢化と団塊世代の引退)
昭和22年以降の数年間にかつてないほどたくさんの子供が生ま
れました。堺屋太一さんの命名でしたでしょうか「団塊の世代」と
呼ばれていますね。戦後約60年たちますが、日本の社会はこの
「団塊の世代」の動向によって動いてきたと言っても言い過ぎでは
ないようです。すなわち、ベビーブーム、入試競争、結婚ラッシュ
・・・高度経済成長やバブル崩壊も、団塊の世代の動きが世の中を
変えて来た一つの要因だったと私は思っています。
「団塊の世代」がなぜ生まれたか。それは、戦後、多くの人々が
故国に戻って生活を始め、子供達が生まれた。さらに、現在進行中
の少子化により、日本の人口ピラミッドを特異な形にしたのでしょ
う。
そして今、リストラを含め、そろそろ団塊の世代が引退期を目前
にしています。60歳定年制のもとで、多くの方がまもなく引退生
活に入ることになるからです。
年金問題がこれだけ深刻化してきた背景には、少子・高齢化が進
んで、働く世代が相対的に減ったこと、その一方で年金受給者(高
齢者)が増えて年金会計が破綻状態になっているのに、さらに一番
人数の多い世代が一挙に年金生活に入ってくるという現実があるの
です。
(Ⅱ)世代間助け合いの原理
本来、国民年金制度が発足した昭和36年当時、私たちには世代
間助け合いという意識は薄く、将来の安心を買う、自分の貯金のつ
もりだったことは事実でしょう。
それがどうもそうではないらしい。自分達の拠出金は前の世代
(この制度の設立時で言うなら、年金を積み立てていない方々)、
に支払われている。それでも人口は増えているし、右肩上がりの社
会で我々の年金は子供達の世代が払ってくれるから大丈夫だろうと
疑わなかったのです。でも現実は、少子化が進行していたのです。
(Ⅲ)バラバラにスタートした各年金制度
具体的には、公務員の恩給制度が一番古いのでしょうね。この制
度がいつから始まったか正確には分かりませんが、公務員給料から
の天引き積み立てに加えて、国の役人が大きな予算を計上して自分
達の権益を守ってきた、その有利さが世の批判を招いているようで
す。
公務員は、現役時代の給与水準が民間より低いから、恩給ぐらい
は多くてもいいではないかとか、恩給を受け取るのが役人の唯一の
楽しみだといった言葉を聞いたことがあります。現在は恩給ではな
く、共済年金と呼んでいます。また、地方公務員が加入している地
方公務員共済組合制度がありますが、市長もこの年金制度に自動的
に加入するようです。
会社勤めの方々を対象にして始まったのが、厚生年金です。これ
は個人の給料天引き分と同額程度を企業が負担しています(企業に
とって社員の厚生年金支払いは義務ですから、本来は会社で社員の
厚生年金を払っていないということは無いはずです)。公務員の共
済年金において、国や地方が半額程度負担しているのと同様に、企
業が同額程度負担していると考えれば、その負担分は企業の法定福
利費として損金扱いされていることで仕方がない面もありますが、
大不況時代、企業にとって負担が大きすぎるということで、正規社
員扱いをやめて厚生年金から脱退させ、国民年金に加入させている
という話も聞こえてきます。また、今後は企業の海外進出で、国内
が空洞になってきて厚生年金加入者が減少することもあるわけで、
厚生年金財政も厳しくなると思われます。
そして、国民年金です。政治家の未払いが分かって国民の不信を
買っていますが、これは自営業者(政治家も含まれるようです)や
自由業の人、主婦の皆さんが加入している年金です。企業を辞めた
方も60歳以下であれば、この年金に加入しなければなりません。
この年金制度の運営は、国が行っているのですが、昭和61年4
月から(国・県・市の)議員や主婦が強制加入になりました。また、
平成3年4月からは、20歳以上の人は学生であっても強制加入に
なるなど、途中で制度がいろいろ変わったために分かりにくくなっ
てしまった。あるいは他の年金に比べて掛け金や給付が低く、国の
負担が大きくなかったためか、あまり重要視されてこなかった、と
いうことでしょう。
厚生年金は給料天引きで自動的に徴収されているのに、国民年金
は加入者個人が手続きをするわけですから、忘れてしまうことや、
お金の都合で払えないことだってあるはずです。
このほか、批判の多い議員年金もあります。これは国会議員だけ
でなく、県・市の議員にも関係があり、個人積み立て以外に公的支
援も相当大きいらしく、問題視されているようです。しかし、議員
には退職金というものがありませんので、老後の生活保障はある程
度は必要なのかもしれませんが(ただ、地方議員年金と国会議員年
金の二重受給といった不可解な制度にも問題があるように思います
が・・・)また、純粋に民間運営されている年金制度もあり、問題
を分かりにくくしている要因は沢山あります。
来週は、私が考える年金制度のあり方について、私案を交えてお
伝えしたいと思います。
2004年6月25日金曜日
知事の住所決定に対する対応について
6月市議会定例会冒頭の議案説明で、私はこの度の知事の住所決
定に対する対応について「知事の住民基本台帳法に基づく住所の決
定を取り消す」ことと、「平成15年9月26日から平成16年3月26日
までの田中康夫氏の住所は、長野市にあると認める」ことを求めて
提訴する考えを示し、そして長野市議会の議決を経て、6月23日、
長野地方裁判所に提訴しました。市議会の審議では多くの議員の皆
様のご理解をいただき、万全の態勢ができたと思っています。
5月25日の知事の決定(住所は泰阜村であること)を受けて、
その後の対応については、議会開会の前日まで、悩みに悩みました。
正直言って、こんなことで訴訟を起こすことは避けたい、というの
が本心でした。県都の市長が県知事を訴えるというのは、異常事態
であり、好ましいことではないことは当然です。放置すべきか、最後
まで戦うか、その選択に最後まで迷ったということです。
しかし、結局このまま放置したなら、すなわち公認されてしまっ
たら、全国の自治体が困る、地方自治の原点が崩れてしまうと判断
し、提訴に踏み切ったわけで、まさに「義を見てせざるは勇無きなり」
の心境でした。「勇気」とは正しい事を行うことであります。
社会の混乱を防ぐ「正義」と、混乱を防ぐために敢然と戦う「勇気」。
この「正義」と「勇気」の二つの言葉を私の励みにして、今後、裁判
に臨んでまいりたいと思っております。
「単身赴任の方のように住民票が現実と一致していない人はたく
さんいるではないか」「知事は5月に市内のマンションを引き払った
のだから、もういいではないか」というご意見がありました。しかし、
知事のこの住所決定を受け入れると、生活実態が伴わない場所でも、
意図的に本人の意思で、住所地となり得ることになり、市町村は、
公平・公正な住民サービスを行うことができなくなってしまいます。
この懸念は、先の長野県市長会においても各市の市長全員一致で、
知事の決定に抗議したことからも明らかです。
また、税金の無駄遣いではないかというご意見もありました。確
かに、訴訟を起こすには多額の費用がかかります。この訴訟に貴重
な財源を使わなければならないことにも「ためらい」がありました。
しかし、私は、公人である知事が、「好きなまちに住民税を納め
たい」と法律を無視し、意図的に住民票だけを移したことに一番の
原因があり、知事の決定をこのまま放置することはできないと考え、
熟慮の結果、提訴するという意思を固め、皆様のご理解を求めたわ
けです。
今回、皆様にご理解いただくために長野市の考え方をホームペー
ジに掲載いたしました。問題点や、問題を放置した場合に起こりう
る社会的混乱、司法の判断を仰ぐ理由、そしてこれまでの経過も掲
載いたしましたので、ご覧いただければ幸いです。
☆ホームページ☆
http://www.city.nagano.nagano.jp/topics/index.html
なお、この件については①できるだけ事務的に、粛々と進めてい
くことが必要であること、②提訴となった以上、問題は司法の場に
移るため、重大な変化がない限り、私からコメントは差し控えたい
と思っています。
また、長野市の提訴とは別に、知事が長野市と泰阜村の選挙人名
簿に二重登録されている問題で、「泰阜村選挙管理委員会が知事を
選挙人名簿に登録しているのは誤りだ」として、長野市内の有権者
5人が同村選挙管理委員会に登録取り消しを求めた訴訟の判決が
24日、長野地裁でありました。
この中で裁判長は、選挙人名簿の二重登録の原因となった知事の
住所について、知事の昨年9月26日から今年3月1日までの長野市、
泰阜村の滞在日数等の生活実態を基に「生活の中心が泰阜村に移った
とは認められない」と指摘した上で、「(知事は)名簿への登録資格
を充足していない」「名簿に誤載があったと言わざるを得ない」との
判断を行いました。
このことは、知事の住民基本台帳法に基づく住所の決定を、否定
する形になったことを意味しており、長野市としては、今後の裁判
の行方が大変明るくなってきた思いであります。
訴訟を起こすという勇気ある行動を起こしていただいた5人の市
民の方々に、心から感謝します。
なお、今回のメールマガジンの配信が一日遅れたことは、誠に申
し訳なく思っています。理由は24日(木)に前記の判決が出るこ
とが予定されていましたので、その結果をきちんと入れたかったた
めに配信を遅らせたものです。