過去2週にわたって、松代を舞台に行われた“真田まつり”や
“真田サミット”など、この1年に私が経験したイベントについて
書いてきました。もちろんこの他にも、松代には素晴らしいイベン
トがたくさんあると思いますし、ここでは触れることができません
でしたが、松代の魅力の中心とも言える史跡松代城跡、長国寺を
はじめとする寺院建築、文武学校、武家屋敷、商家、城下町のおも
かげ、泉水路、古墳など、多くの歴史の宝物が現存しています。
さらに、歴史的な人物として、みなさん良くご存知の佐久間象山や
松井須磨子、そして、もしかすれば現代の私達が一番見習うべき人
物かもしれない恩田木工、あるいは松代藩に縁のあるいろいろな人
物がいらっしゃいますが、そんな人物の魅力を引き出し、徐々に現
代に蘇らせていく、そんな施策が松代にとって必要になってくるの
でしょう。
そういえばもう一つ、松代では「ミステリアス信州」という面白
いイベントがありました。これは、JR東日本・浅見光彦倶楽部等
が企画し、ミステリー作家で軽井沢町在住の内田康夫さん監修によ
るミステリーを基に、お客さんは探偵として、旅をしながら仕掛け
を推理していくというイベントです。今年で8回目ということです
が、固定ファンがたくさんいて、東京方面を中心に、毎回800人
以上の参加者があり、第1回から皆勤している人もいるぐらい面白
いイベントらしいのです。
過去信州のいろいろな場所、例えば鬼無里村、戸隠村、別所温泉、
飯山市等々を舞台にして、内田さんの監修の仕掛けを推理するイベ
ントとなっており、今年は「松代・小布施・渋温泉紀行」というこ
とで行われました。これは、新しい観光イベントの形かも知れませ
んし、松代を題材にしたイベント、演劇、音楽など、何でも良いと
思うのですが、このようなイベントが出来たらきっと素晴らしいPR
効果が出るように思います。できることなら、松代を舞台にした作
品を作っていただければうれしいなと思っています。
平成15年度で史跡松代城跡の修復事業が一段落しますし、旧神
田川跡地の駐車場建設も一応の完成をみる予定です。もちろん、真
田邸(新御殿)の修復事業はまだこれからですし、まち並み修景の
事業はまだまだ続きますが、過去松代に投資した金額は相当になって
いますので、そろそろ回収をしていきたい。すなわち善光寺と同じ
ぐらい多くのお客さんを松代に招き入れる、そんな時期になってい
るのではないでしょうか。
平成16年度を“松代YEAR”にしようということで、松代の
方々が動き出しました。10月29日、松代観光戦略推進会議準備
委員会が設立され、趣意書が承認されました。松代地区の住民が中
心となって、主体的に自らのまちの観光戦略を構築し、全国ブラン
ドの観光地として知名度の向上を図るというものであり、これから
どんな戦略が出てくるのか楽しみです。
アドバイザーとして、秋山智弘氏(横浜市在住)、上村道正氏(茅
ケ崎市在住)、石川利江氏(長野市在住)の三名が就任されました。
素晴らしい皆さんに就任していただいたと思っています。長野市と
しても体制強化のため、松代支所に職員を配置し、お手伝いをする
ことにしています。松代YEARを一過性のものに終わらせるのでは
なく、将来に向かってのきっかけとして、以後、市民みんなで長期的
視点に立って、いかに盛り上げていくか、が大切だと思っています。
さて、今年も残すところあと僅かになりました。何かと重苦しい
出来事が多い中、ようやく中心市街地の活性化策や世界に通用する
高度な技術としてナノテクノロジーが認められ、長野・上田地域が
「知的クラスター創生事業」の指定を受けるなど、将来が楽しみな
事業が見えてきました。また、来年(平成15年度)は善光寺御開
帳の年、次の16年度は松代の年です。市民の皆さん、長野の元気
のために頑張りましょう。
皆様とご家族がすばらしい新年をお迎えくださいますよう、お祈
り申し上げます。
来週(1月2日)号は、休刊とさせていただきます。新年号は1月
9日配信となりますのでよろしくお願いします。
2002年12月26日木曜日
松代YEARに向けて(その3)
2002年12月19日木曜日
松代YEARに向けて(その2)
今回は、11月10日(日)・11日(月)に松代を舞台に繰り
広げられた「真田サミット2002 inながの」について報告しま
す。今回で5回目を迎えるこのサミットは、真田氏に縁のある全国
の市町村が一堂に会し、連携を深めることを目的としているもので、
今年は長野市が当番市ということで、当然のことながら松代で行わ
れました。
1日目には、松代文化ホールで基調講演や参加首長によるシンポ
ジウムなどが開催されました。基調講演では信州大学人文学部の笹
本教授の話をお聴きしましたが、大変感銘を受けました。教授は、
山梨県の出身で、戦国時代の研究家として特に武田信玄について、
お詳しい方です。真田氏が武田信玄に仕え、戦国時代を生き抜いた
知恵と戦略をいろいろ話された後、「長野市民は松代のことを知っ
ていますか?愛していますか?誇りを持っていますか?」と問い掛
けられました。市民が誇りを持っていない所へ「観光客に来てくだ
さいと言ったってそれは無理でしょう」ということです。
また、松代は戦国の乱世をたぐいまれなる武勇と知略で生き抜い
た真田氏が、徳川幕府によって移封されてから、250年間居城と
した場所。一番長く居た場所だけに、いろいろな史跡が残っている、
所縁も深いということでしょうか。
サミットのメンバーは13市町村ですが、今回の出席は11都市
でした。笹本教授の司会で、パネルディスカッションを行いました
が、それぞれ真田氏との関係、そして自治体としての取り組み等を
お話しいただき、参考になりました。第1回サミットは真田氏発祥
の地、真田町で行われ、第2回は上田市、第3回は群馬県沼田市と
続き、昨年の第4回は宮城県白石市で行われ、来年は秋田県の岩城
町、その後は和歌山県の九度山町で開催することが決まりました。
それぞれ何故サミットのメンバーか、真田氏とどんな縁があるのか、
初めての私には全てを覚えられませんでした。来年、日程等の都合
で私が参加できるかどうかは未定ですが、ぜひ行ってみたいもので
す。
サミットのアトラクションで郷土芸能が演じられましたが、これ
は見事でした。私は笹本教授と隣合わせの席で拝見したのですが、
教授は「さすが松代だなぁ」としきりに感心しておられました。私
も通常の郷土芸能とは違う「大門踊」などは、十万石の風格を残し
て歴史を感じさせるものと思いましたし、笹本教授は「ぜひ県の無
形文化財の登録をすべきだ」とおっしゃっていました。子どもたち
の演ずる「勝どき太鼓」も他とはちょっと違うなぁ!と思わせる見
事さだったと思います。
1日目の行事が終って、松代ロイヤルホテルで交流会が開催され
ましたが、その時私達が宴会でよくやる“北信流”は松代が発祥の
地ということで、正式な作法によりやっていただきました。遠来の
首長さん方をお客様として、観世流の謡を肴に“お盃(おさかずき)”
を差し上げたのですが、首長さん方はかなりびっくりしておられた
ようです。
2日目、私は日程の都合がつかず、松代の視察にはお付き合いで
きませんでしたが、各首長さん方は、真田十万石城下町の史跡をき
っと楽しんでいただけたことと思います。
松代の隣の若穂地区にも、松代に劣らぬ史跡がたくさんあるそう
ですから、松代・若穂という河東地区は、長野市でも最も歴史や文
化の遺産に恵まれた地域といえるのではないでしょうか。
来週は、平成16年度に計画している「松代YEAR」を中心に
お知らせしたいと思います。
2002年12月12日木曜日
松代YEARに向けて(その1)
今年は何度か松代を訪れましたが、訪れる度に松代の奥深さを感
じています。限られたエリアの中に、古代の古墳群から真田十万石
の町並み、近代の大本営移転予定地であった地下壕まで、数々の歴
史が集積されており、他に類をみない「不思議なまち」と言われて
いますが、本当にその通りです。今回から数回に分けて、私の経験
した松代のことを書いてみたいと思います。
今年も「第47回信州松代 真田まつり」が10月12日・13日の
2日間にわたり行われました。絢爛豪華な衣装に身を固めた真田
武士や、きれいに着飾ったお姫様など、馬上豊かな松代藩真田十万
石行列は見事でした。特に、真田家14代当主の真田幸俊氏(慶応
大学講師)の殿様ぶり(初代真田信之公役)はご立派でしたし、長
野市の姉妹都市クリアウォーター市から、交換教師で来ていただい
ているステイシー・リトルさんの小松姫の女武者ぶりも大変魅力的
で、多くの見物客の喝采を受けていました。
カチューシャの唄の縁で知音都市交流(*)を続けている島根県
金城町(島村抱月の生誕地)の方々も参加してくださり、信政隊と
して行列に加わってくださいました。松代の方々もそれぞれ何々隊
と名乗って、総勢260名が行列をつくり、松代の町を約4時間か
けて行進をされたようで、大変な御苦労だったと思いますが、多く
の見物客を喜ばせてくれました。
当日、松代の方々がたくさん参加いただいていることは当然ですが、
篠ノ井商工会議所の渡辺会頭さんや上山田町商工会の飯島会長
さんをはじめ、市内外の商工・観光の関係者の皆様が応援に駆けつ
けてくださり、地域間の連帯が感じられる大行事でした。また、町の
有志の皆さんが運営する人力車が出ていました。この人力車は、
なかなか高級品のようで、お値段は軽自動車よりもちょっと高いと
いうことで、大変素晴らしいものでした。残念ながら、この日には乗
ることができませんでしたが、違うイベントで乗る機会がありました。
そこには車や自転車とは違う世界の風景がありました。是非一度
乗ってみてください。
なお、前夜祭も行われ、ストリートパフォーマンスも盛大に行わ
れたようで、役員の皆様や委員会の皆様の努力もさることながら、
ボランティアの皆様のパワーが確実についてきていることを感じさ
せるお祭りでした。
平成15年度は、松代城の太鼓門復元を記念し、行列の出発地が
史跡松代城跡に変わるそうです。一段と雰囲気が盛り上がるのでは
ないでしょうか。太鼓門から出陣していく武者行列の姿が今から目
に浮かびます。
来週は、真田氏にゆかりの深い市町村が一堂に会し、広域的な連
携や交流を深めながら個性と魅力あるまちづくりについて研究を行
っている「真田サミット2002 in ながの」について報告させていた
だきます。
(*)知音都市交流(ちいんとしこうりゅう)
カチューシャの唄に縁のある都市が集まって交流している事業です。
女優(歌手)・松井須磨子(長野市松代町)、作曲家・中山晋平(中野市)、
作詞家・相馬御風(新潟県糸魚川市)、演出家・島村抱月(島根県金城町)
の四つのまちが集まって交流しています。
2002年12月5日木曜日
中核市サミット2002in長崎
11月27、28日の両日、長崎市で中核市サミットが行われ参
加しました。中核市(*)は現在全国で30市あります。今回のサ
ミットには、28市から市長をはじめ代表者が出席し、中核市の抱
える問題や、より一層の権限移譲の必要性等について協議をいたし
ました。
サミット冒頭には、元内閣官房副長官で現・地方自治研究機構理
事長である石原信雄氏の記念講演が行われました。石原氏は、中核
市制度創設に向け積極的に活動された方であり、講演の論旨は、
1.中核市が求めている税財源の移譲を含む税財政制度の抜本的な
解決は、一挙には無理であろう。ただし、将来のあるべき姿、
方向性は示されなければならない。
2.政府が進めている合併推進策によって、期限の平成17年3月
になると、力の有る自治体(都市)と、力の無い自治体(町や
村)に二極分化し、団体の格差は広がるであろう。
3.政令指定都市と中核市の垣根は限りなく低くなり、都道府県と
市との業務配分が問題になる。市町村が基礎的自治体の役目を
果たすことになれば、都道府県の役割は軽くなり、府県制に変
えて道州制を想定する議論が始まることになる。過去、知事会
が反対して取り上げられることがなかったが、かなり幅広く議
論が出てくるであろう。
4.力の有る自治体と無い自治体を同等に扱うことは、国として問
題であろう。このことは、行政の立場で考えてはいけない、住
民の立場で考えるべき時にきている。小規模町村の扱いを含め、
21世紀の基礎的自治体の在り方を、遅くとも来年10月を目
途に、決めなくてはならない。
5.21世紀の地方自治をリードするのは、中核市である。
以上、中核市の会議における記念講演であるが故に、多少お世辞
の分もあるかも知れませんが、でも中核市の市長としては、かなり
納得できる内容でした。
続いて行われた分科会は、次の三つのテーマに分かれて各市長が
意見を述べました。分科会は、
第1分科会 「都市の環境政策」
第2分科会 「既成市街地整備」
第3分科会 「地方分権改革」
に分かれており、私は第2分科会に出席し、長野センタービル
(旧ダイエー長野店ビル)をはじめとした中心市街地の再生に向か
っての取り組みを話しました。どこの市も大型店の撤退等で、中心
市街地の空洞化で苦しんでいる実態が語られましたし、行政が倒産
ビルを買い取るために何十億円も投資したという話もありました。
古いビルとはいえ、長野市が長野センタービルを二億円で買い取っ
たのは安いのかなと思いました。
歩きたくなる街、居住人口の増加、公共交通機関の再生等は、い
ずれの都市でも重要テーマと考えられているようでした。また、中
核市はそれぞれ歴史と文化があるということも痛感しました。
さらに、私からは長野市は合併した都市の特徴として中心市街地
が三つある。一様には扱えない。それぞれの地域の特性や歴史を生
かし、特色ある街づくりをしたい。一極集中でなく、多軸構造の街
を目指すという話をしました。
以上の記念講演や分科会のまとめとして、次のような長崎宣言を
決定しました。
中核市サミット長崎宣言
国では、地方分権改革推進会議が設置され、地方の大きな変革と
なる地方分権改革が推し進められています。
中核市は、地域住民のニーズに応えて、自主的、自立的かつ効率
的に行政運営を行うために、都市経営能力を高め、自己決定・自己
責任の原則に基づいた自立的な行政システムの構築を目指す必要が
あります。
そのためにも中核市は、行財政改革、広域行政、少子・高齢化へ
の取り組みなど諸施策を展開することで21世紀の新しい都市を創
造しなければなりません。
私たちは、地方自治体の先駆者として、中核市の役割と責務を認
識し、市民と協働のまちづくりを全国にアピールするため、次のと
おり宣言します。
1 中核市は、地方自治の充実のため、権限移譲、自主財源の確保
に取り組み、自主的・自立的な行政運営を推進します。
2 中核市は、それぞれの歴史、文化に根ざしたまちの特性を活か
しながら、都市基盤の整備に努め、都市機能の再構築による魅
力的なまちづくりを推進します。
3 中核市は、市民、事業者と一体となって、日常生活や事業活動
による環境への負荷を軽減し、大気・水・廃棄物などの物質の
健全な循環を保ちながら、環境の保全と汚染の未然防止に努め、
安全で環境にやさしいまちづくりを推進します。
サミットの会議などの合間を縫って、長崎市内のまちなみを拝見
させていただきました。一番印象に残ったのは、路面電車です。民
間企業の経営とのことですが、環境にはやさしいし、安い料金で、
ウイークデイにもかかわらず、昼間から多くの皆さんや観光客が利
用していました。横断歩道橋の上から停留所に降りることが出来る
とか、道路幅が広いこと、市域が狭くて人口が多い(市域は長野市
の半分で、人口は42万人)から採算が合うのでしょうが大変便利
です。私もホテルからグラバー園まで行くのに利用させてもらいま
したが、乗り継ぎも含めて100円でした。日本中が路面電車を廃
止した時期に頑張った先見性を羨ましく思いました。ただ、バリア
フリーとはいえないのは、悩みでしょう。
もう一つ印象的だったことは、長崎県では市町村合併が大変積極
的に進められていることでした。現在、長崎県には79市町村があ
りますが、この内、95%に当たる75市町村が合併のための法定
・任意合併協議会をすでに設置しており、平成17年3月までに合
併する方向で検討が進められています。すなわち、長崎県では離島
を含めて、ほとんどが財政力や行政能力の高い市になってしまうか
も知れないということです。
市町村合併への取り組みは「西高東低」といわれています。九州
をはじめとした西側では積極的に合併が検討されており、逆に東北
・北海道ではなかなか進まないということだそうです。
中核市サミットの中でも話が出ましたが、地方自治体というもの
の考え方が、地域によって大きく違っていることについて、改めて
驚かされました。
以上、中核市サミットに参加しての感想をお話させていただきま
した。
*中核市
政令指定都市以外の都市で、人口や面積が比較的大きな都市につい
て、その事務権限を強化し、出来る限り住民の身近なところで行政
を行うようにした都市制度です。
要件としては、人口30万人以上であり、人口50万人未満の市に
あっては面積100平方キロメートル以上とされています。
長野市は、平成11年4月に中核市へ移行し、2,778の事務が
県から移譲されました。
2002年11月28日木曜日
えびす講の花火のこと
23日の夜、恒例の第97回長野えびす講煙火大会が盛大に行わ
れました。今年は例年に比べ大変暖かくて天気もよく、絶好のコン
ディションで、素晴らしい花火を満喫しました。
えびす講は岩石町にある西宮神社のお祭りで、毎年11月19日
が宵恵比寿ということで、20日に行われているものです。そして
花火はその協賛ということでしょうか、あるいは農業が主要産業で
あった時代、収穫祭的な意味もあって商店の客寄せの行事として、
毎年11月20日の夜に行われてきました。
「花火は暑いときのもの、11月は寒くて駄目だ」という意見は
随分ありましたが、伝統の行事であり、そしてこの時期は空が澄ん
できれいに見えるとか、夏の最盛期よりこの時期の開催は花火師に
とっても閑な時期なので、価格の割に盛大な花火を打ち上げられる
といった現実的な話もあり、花火の時期としては異例に属するかも
知れませんが、実際年々盛大になってきており、この時期の開催は
定着しているといえるでしょう。
この花火大会では、花火師が新作花火の腕を競う「全国十号玉新
作花火コンテスト」も同時に開催されており、今年で11回目を迎
えました。翌年の新作花火をいち早く見ることができるということ
で、こちらも好評をいただいているということです。
毎回、花火打ち上げ現場の丹波島橋近辺の車が大変混雑するのが
悩みだったのですが、ある年11月20日がたまたま日曜日だった
とき、付近の車の流れがとても良かったので、それなら固定的に休
みになるその近辺ということで、23日(勤労感謝の日)に固定さ
れたわけです。
いずれにしろ大変寒い日が多く、雪が降ったときもありました。
でもあの寒さの中、多くの市民が集まりますし、最近は遠来のお客
さんも増えているとのことで、抽選会等の花火以外のイベントも行
われ、露天の屋台もたくさん出店するようになって、賑やかになっ
ています。また、すぐそばの「サンライフ長野」の一室では、毎年
米寿のお年寄りを招待するイベントも行われています。INCがTV
中継するようになったことも、有り難いことです。
(過去の歴史のなかで)
ちょっと私的なことで申し訳ないのですが、私の祖父鷲澤平六は
この花火の打ち上げに熱心に取り組んだ人だったようです。祖父が
昭和4年に亡くなった後、長野商工懇話会(長野商工会議所の別働隊)
が作ってくださった「鷲澤平六翁」という本がありますが、その中
に祖父の言葉として、こんなくだりがあります。
「東京から、名題の大芝居を招いて、見物するとしても、ざっと、
一日に三千円位な金を使い果たしてしまうが、しかもその見物人の
数は、七・八百か、精々千人が止まりじゃねえか、随分高いものだ。
それに比べると、花火の金は三・四千円程度で、拾何万という人に、
貧富老幼の差別なく、顔を外へ差し伸べれば,無造作に見せられる
んだから、世の中に、こんな安いものはあるまい」
この話、多分大正から昭和のはじめ頃のことですから、高いビル
も無く、娯楽もあまり無い時代、そして長野市もまだ合併前の市域
が狭い頃のことで、今とはかなり違うように思います。でも私は、
若い頃この本を読んだとき、祖父の発想法にびっくりしたことを思
い出します。
長野の花火の歴史は古く、江戸時代から小規模な花火大会が盛ん
であったようで、明治になってからも、明治11年ぐらいから私的
な催しとしてあったようです。そして、明治32年に新しい体制で
行われるようになったのですが、景気の変動があったりで私的な運
営は無理になり、大正4年、長野商工懇話会が後援し、寄付を全市
的に集めるようになってからは、安定的な運営が出来るようになっ
たようです。
その大正時代、ニ尺玉(直径約60cm)という当時としては最
大の花火を初めて打ち上げ、世間をアッと仰天させたことで長野の
えびす講煙火大会は有名になり、全国的に見ても、現在よりかなり
存在感は大きかったようです。そして戦後は長野商工会議所や長野
商店会連合会の主催になって、今日まで続いている伝統の行事です。
花火の打ち上げ場所の問題は、長野市の都市化の進展と共に、危
険を避けて市内をあちこち動いています。ただ、花火には商店街の
振興という役目もあるわけで、あまり街から離れては寄付が集まら
ないということもあります。相反するテーマの為、主催者、警察、
消防等が歴代かなり苦しんできたものです。
私達の子どもの頃は、柳町中学校の少し西側(中心街に近い方)
高土手という場所でした。都市化の波で昭和40年代には地附山、
そして丹波島橋の上流で上げたこともあったように記憶しています。
現在の丹波島橋と長野大橋の間に定着したのは、そんなに古いこと
ではありません。
この場所に移す時には、日赤病院が近いことから音が心配された
のですが、日赤病院の理解もいただいて、現在まで大きなクレーム
もなく実施されていることは、大変有り難いことです。
えびす講の花火が今後ますます盛んになって、初冬の花火大会と
して、多くのお客さんに来てもらえるように期待したいと思います。
2002年11月21日木曜日
市長就任一年を迎えて(その3)
行政の説明責任(アカウンタビリティ)や民意の行政への反映と
いうことが重要視されています。今週号ではこれらの点について取
り組んできた行政施策や今後の考え方という点について書かせてい
ただきます。
(広報広聴制度の充実)
みどりのテーブルとして実施している広聴事業のうち、従来の地
区行政懇談会を今年度から「元気なまちづくり市民会議」と名称を
改め、開催時間帯を過去の慣例にとらわれず、なるべく多くの皆さ
んが出席できるように、休日や夜間も含めて地域の皆さんの都合の
良い時間にお願いしたり、課題についても、地域の皆さんが事前に
話し合って決めた地区としての提案だけでなく、当日参加された市
民の皆さんが発言できる自由討議をできるだけ取り入れていただき
たいと申し入れました。
その他、地域横断的なテーマや、女性・子ども達・ボランティア
団体あるいは外国人の皆さんとの懇談や、私が各種グループの活動
の拠点に出向いて実施する「みどりの移動市長室」も積極的に開催
しました。
特に「元気なまちづくり市民会議」では、区長さんにお願いして、
市側も従来のやり方を変え、プロジェクターを使い、図やグラフな
どをスクリーンに映し出すなど、分かりやすい説明とともに、出来
るだけ率直に話すなどを心掛けたつもりです。まだ初年度ですから
十分ではないと思いますが、少しずつはご理解いただけたのではな
いかと感じています。さらに、市役所の若手職員との朝食をとりな
がらの「市長と語る元気なまちづくり懇談会」を週1回実施してい
ます。この目的は、理念の共有と資質の向上ですが、大変有意義な
形で現在進行中です。それ以外にも、メールマガジンの発行も私の
考えを知っていただくという意味で有意義な事業と捉えています。
これらの会議などで感じたことが、いくつかあります。
1.全体的にもう少し自由に発言できる雰囲気が出れば良いなぁ、
ということ。
2.あらかじめ分かっている質問に対する答えは、当日、担当部
長がいますので何とかお答えしますが、自由討議では、どん
な意見や要望が出てくるか分かりません。そのため、担当職
員がいないと正確にお答えできないことが多いということに
ついては、大変に申し訳ないと思うのですが、市役所の縦割
り組織のもとではどうしても仕方のないことでした。
3.市長の立場は大変微妙でして、その権限の大きさ故かも知れ
ませんが、直接的なお答えをすると、それが事実になって一
人歩きしてしまう。ある意味で決定になってしまうというこ
となのです。私はすべての施策は、行政の中で十分に話し合
ってから、決定すべきというのが信念で、市長が勝手に決め
るものではないと常に考えています(ただし、これはすべて
を人に決めてもらうということではありません。自分の意見
をきちんと伝え、組織の中の議論を経て、発表するべきであ
るということです。そして根幹のところでは、市長は絶対に
ブレ無い、説得責任を果たすことが大切なのでしょう)。そ
のため、その場で「やる」ということは一切言わないように
してきました。でも長野市の実情とか近い将来の構想につい
ては一生懸命お話したつもりですし、出席していただいた皆
さんからは、お世辞もあるとは思いますが「よく分かった」
という好意的な評価をいただいたように思います。
4.若手職員との「市長と語る元気なまちづくり懇談会」は、1
回12人づつ4回を1サイクルとして開催していますが、年
内に約100人と話をすることになります。職員の勉強、そ
して私との理念の共有を目指したのですが、最近は私の勉強
会みたいになって、教えられることが多い。個々の職員の能
力はかなり高いなぁ、与えられた職務に対しては相当の困難
があっても、職責を遂行できる人材ということを感じていま
す。しかし、市とか県とか国家全体との関連において考える
訓練はされていないことや、まったく新しいアイデアを具体
的に提案する人は少ないという印象を受けました。即ち政策
マンはあまり多くないし、市長の政策に根本的な所で文句を
つける職員もあまりいない(市長に反抗しろというのではな
く、内部で気軽に提案をする、そして議論する、非公式の話
だから外部には出ないし、人事査定には関係ない、だから言
いたいことを言う。そんな中から新しいアイデアが出てくる、
そんな風潮をつくりたい)と感じました。縦割り組織という
のは、個々の政策について責任体制がはっきりするという意
味では良いのですが、これからは総合的に考えていくことが
大切で、それに対応できる職員の養成が重要と考えています。
(今後への考え方)
本年度は第三次長野市総合計画後期基本計画、行政改革大綱改
正、行政評価の施策への反映、NPO助成要綱、男女共同参画の
条例等々、近い将来の長野の骨格を決める話し合いや議論は一応
終止符を打てると思っています。即ち、年度内に方向性を決め、
条例を制定すべきものは制定し、平成15年度からは、その実行
に全力を挙げる、ということです。議論は終った、具体論で市政
を進めたいと考えています。
2002年11月14日木曜日
市長就任一年を迎えて(その2)
先週は、市長に就任して一年間を振り返り、強く感じたことや良
かったと思うことを書かせていただきました。今週号では、私が市
長に就任してからの主な出来事を振り返ってみたいと思います。
(この一年の主な出来事)
1.最初に取り組んだ仕事は、旧ダイエー長野店ビルの取得と旧そ
ごうの自己破産問題を含む、中心市街地の活性化問題でした。
確かに企業社会のことに行政が口を出すことは、良い結果を生
まないかも知れないという危険性を抱えながら、現在の長野市
の状況を考えると、どうしても優先的に取り組まざるを得なか
った。もう少し早く片付けたかったのですが、難しい問題もあ
って、旧ダイエー長野店ビルのオープンは来年4月の予定にな
りました。全国の中心市街地再生のモデルになりたい、という
希望を抱いています。
2.浅川ダムの中止も長野市にとっては大きな話題であり、今後ダ
ム無しの治水を追及することになります。残念ながら、長野市
の研究ではまだ結論は出ていませんが、安全にかかわる問題で
すので、何らかの具体策を早急に見出す必要があると感じてい
ます。
3.10月8日(火)に豊野町から長野市との合併協議の申し入れ
がありました。長野市とすれば、まだ市民の皆さんに相談をし
ていませんが、豊野町ではいろいろの検討がなされての申し入
れということです。将来、政令指定都市を目指すとすれば、長
野市にとっても素晴らしいお話だと思いますし、また、国は合
併を推進するために期限付きではありますが、いろいろな支援
策を用意しています。地方分権が進む中、市町村の受け皿を整
備すべきことは当然ですし、どうせ合併をするなら、この支援
策を使わない手はないというのが私の考えです。ただ、この問
題はこれから両市町で協議することですから、最終的に合併す
ることになるかどうかは分かりません。今後、任意合併協議会
を設置して本格的な調査・研究を進めてまいりますが、市民の
皆さんには、協議会における進展具合いを出来る限りオープン
にお伝えしていこうと考えています。
4.その他、実際の動きでは、イベントが随分盛んになってきまし
た。私の経験したものだけでも、えびす講の煙火大会、長野オ
リンピック記念長野マラソン、びんずるまつり、真田まつりな
どは、全国的にもその知名度を上げているようですし、オリン
ピック4周年記念イベント、更北の古戦場フェスティバル、
七二会の陣場平トレッキング、芋井そば祭りなどは、地域の皆
さんの手作りによる心温かいおもてなしがとてもありがたく感
じました。全てを書き尽くすことはできませんが、各地の従来
から行われている神社のお祭りや市民が作るお祭りは随分盛ん
になっています。さらに、長野駅から善光寺までの参道や小路
に花回廊が広がった『ながの花フェスタ2002』は、全国か
ら多くのお客様をお迎えすることができ、このイベントが長野
の春の歳時記に成長することを願ってやみません。
まちの活性化のためには、市民の皆様が出来るだけ主体的に地
域の歴史・文化の保存に努めながら、交流人口を増やし、長野
発の情報を発信し、そして街の賑わいを演出していただくこと
が、大変有意義なことと考えています。
(この1年の出来事については、メールマガジンで配信したものが
あります。詳細につきましては、バックナンバー
https://wwws.city.nagano.nagano.jp/mail-mgz/backno/2002/index.html
をご覧ください。)
この他にも様々なことがありました。たくさんの方々とお会いす
ることができましたし、いろいろなお話を聞くことができました。
また、それぞれの出来事に感動や苦悩がありましたし、行政の役割
について考えさせられることもしばしばありました。
そんな中で、いかに多くの意見やアイデアを行政に反映させてい
くかということを真剣に考え、長野市の考えや情報をできるだけ多
く、そして正確に市民の皆様にお伝えするにはどうしたらよいかと
いうことを研究し、その一環として広報広聴制度の充実を行ってま
いりました。
次週のメールマガジンでは、この広報広聴制度や今後の考えにつ
いて配信させていただきます。
2002年11月7日木曜日
市長就任一年を迎えて(その1)
(はじめに)
昨年の11月11日に市長に就任して以来、一年が経過しました。
私としては、全く違う世界に飛び込んで一生懸命頑張ったつもりで
すが、行政の勉強に費やした一年であったと思います。そして、よ
うやく年間のローテーションが分かってきたという段階です。
「行政に民間の感覚を入れる」ということを唯一の公約として市
長に就任したのですが、市長の仕事は自分の知っている世界とあま
りにも違っていたが故に、慣れるまで我慢ということで、人の話を
聞くことを中心にやってきたつもりです。「嘘言え!」という外野
席の声も聞こえそうですが、自分の意見を出す場合にも、なるべく
決定的な話ではなく、様子見的な発言、「こんなことを考えていま
す」というような言い回しに終始したように思います。これには訳
がありまして、市長の立場は大変微妙でして、その権限の大きさ故
かも知れませんが、直接的な結論をその場で回答すると、それが事
実となって一人歩きしてしまう。私は、全ての施策は行政の中で十
分に話し合い、様々な側面から検討する必要があると考えているか
らです。そうは言いましても、2年目を迎え、行政の状況が分かっ
てまいりましたので、施策の方向性などについては、もう少し自分
の考えを前に出そう。そうでないと、「行政に民間の感覚を入れる」
という公約に反することになると考えています。
今回のメールマガジンでは、この一年を振り返っての私の思いと、
これから目指すべき長野市のあり方について配信していきたいと思
いますが、若干話が長くなってしまいますので、3回に分けてお話
しさせていただきたいと思います。
今週のメールマガジンでは、この一年を通じて強く感じたことや
良かったことを私なりにまとめてみました。
(強く感じたこと)
市行政のレベルでは手の打ちようがないのかも知れませんが、今
一番行政が考えなくてはならないことは「現在の景気の悪さ、そこ
からくるのであろう閉塞感・活気の無さ」これを何とかしたい。も
う一つは、長野市も高齢化率約20%という高齢社会が間近に迫り、
さらに、今後は人口減少の時代を迎えようとしている中で、これか
らどんな社会になるのか分からない。この二つのことに対し、行政
は何をすべきか、現状では、なかなか打つ手、それも有効な手段が
見つからないことです。何とか明るい話題を提供したい、閉塞感を
脱却したい、高齢者が活躍する場と若者の主体的社会参加の場を作
りたい、それは政治を行う上で、最も大切なことだとは思いますが、
精神論や理念は別にして、なかなか具体論が、それも効果的な提案
が出せない、そのもどかしさを感じています。結局は王道はない、
一歩一歩確実に取り組むことが大切だと思っているのですが・・・。
民営化の推進とNPOの活動が、もしかすれば活路を開いてくれる
かも知れない、との予感はありますが・・・。
(私自身が良かったと思うこと)
昨年の市長選挙では、私自身が政治、行政の仕組みや組織、そし
て細かいことを知らなかったが故に、諸々の政党やグループと選挙
のための政策協定・約束をしないことを原則にしてきました。唯一
の公約は「民間感覚を行政に入れ、市民とのパートナーシップで元
気なまちづくり」ということだけでした。ある意味では行政を行う
上でいろいろな勢力に気を遣わず、長野市のためにどうするのが良
いか、ということだけ考えていれば良い、というフリーハンドをお
許しいただいた、言葉を変えればしがらみに囚われないで行政を担
当させていただけるということであったと思っています。
60歳を超えて、本来ならそろそろ引退を考える時期。全く新し
い挑戦のチャンスをいただいたということは、本当に幸せ者だと思
います。それ以来、このチャンスを無駄にしては申し訳ない、何が
何でも長野市の将来にプラスになることをやろう、それが私の決心
でした。このまちを継いでいく子ども達のために・・・。
さて、そうなると今度は自分の行動は、自分で責任を持たなくて
はならないことは当然であり、そのためには、自分をいかに「無」
にすることが出来るか。初心を忘れず、「無」をどう具現化するか
ということが生意気なようですが、私のテーマだと考えるようにな
りました。「無」なんて格好をつけて言う話ではないかも知れませ
んが、要は「長野市をどうするか、私心を無くして考え・行動する」
ことに専念する、ということでしょうか。幸せなことに、応援して
くれた昔からの仲間も、特に何かを要求することも無く、長野市の
ために良かれということを推進する私の立場を理解し、支援をして
いただいたように思います。
次週は、市長に就任してからの主な出来事を振り返ってみたいと
思います。
2002年10月31日木曜日
ボランティアについて
ボランティアの活動が、私達の社会の中で大変重要であるという
ことが言われています。確かにその通りですが、理由は次の三つに
整理できるかと思います。
1.行政が全てをやる時代は終わったといえるのでしょう。バブル
時代、行政は仕事を増やし、職員を増やし、市民の要望に一生懸命
応えてきました。しかし、少子・高齢化の進展、人口減少の時代を
迎え、経済成長が望めず、税収が減る傾向がはっきりしてきて、行
政は厳しい財政運営を強いられる中で、市民要望を全て実現するこ
とは困難になってしまいました。
2.市民社会、市民参加型社会が出現してきました。即ち「自らの
社会は自らの手でつくろう」という市民型発想、自立型社会を目指
す運動が大きく広がりはじめました。行政側からすれば、その大き
なパワーを頼りにしたいということで、市民とのパートナーシップ
を行政運営の中心に据えようと考えはじめました。
3.ボランティアが組織として認められはじめたことも重要です。
個人ベースの行動だけでは、どうしても継続体制とか責任体制が曖
昧になることは否定できません。そこで、個人の自由な発想をベー
スにしながらも社会に対し責任と継続性をもった社会貢献活動をす
る組織として、いわゆるNPOが法的存在として出現してきました。
ボランティアが社会の構成要素として認知されてきたといって良い
のでしょう。
行政とすれば、そういう風潮を盛り上げ、ボランティアの方々に
もっと活躍してほしいと願っているのですが、いろいろネックはある
ようです。長野市の調査によると、ボランティアの皆さんが感じる
悩みは次の3点ということです。
1.資金問題
2.活動拠点
3.人材確保
資金問題については、行政がボランティア団体やNPO等に事業
を委託することが重要な要素でしょう。行政からある仕事を受託し
てその報酬を受け取ることで、安定した活動が可能になると考えら
れます。ボランティア活動を維持・推進するには、これが最も重要
でしょう。介護保険がはじまって、この事業分野は大きく広がりま
した。行政のサービスではまかないきれない、というよりボランテ
ィアのきめ細かな配慮は、行政には真似の出来ないものと思います。
行政からだけの受託ではなく、民間同士でも可能な分野(例えば
企業から市場調査や企画提案、福祉分野の音楽療法やアニマルセラ
ピー、青少年の健全育成やスポーツクラブ等々)もあるのではない
でしょうか。社会構造やシステムの違い、あるいはNPOの歴史の
違いがありますが、欧米のNPOは第二の市役所と言われるぐらい
大きな存在になっているようです。日本でもいずれ企業でも行政組
織でもない、21世紀の最も重要な組織になるかも知れません。
資金問題で大切なことは、実費や事務費、あるいは正当な報酬を
受け取ることは間違いではないということです。事業を行い利益を
上げても良いのです、ただその利益を構成員で山分けする、あるい
は配当をすることは許されません。その組織の目的達成のために使
うことはかまわないと言うことなのでしょう。
拠点については、現在はNPO代表者の自宅等を事務所にしてい
ることが多いようです。長野市では既に市役所の隣に本格的なボラ
ンティアセンターを設けていますが、まだ足りないと言われていま
す。そこで、今度取得した旧ダイエー長野店ビルにも、市民活動
をする方々の拠点として使っていただくフロアを設置する予定です。
ご相談いただいて、ぜひご利用ください。そして、あのビルには、
まだ余裕がありますので、みなさんからの要望が多ければ、さらに
増やすことも検討したいと考えています。たくさんのNPOの出現
を期待しています。
人材不足、これはある意味では一番深刻なのでしょう。いずれの
組織・団体でもそうですが、創業時の人材から次の世代に活動の中
心を移すことは、なかなか難しい問題です。創業者からみれば「若
いものにはまだまだ任せられない」若い人からみれば「あんな年寄
りとは一緒にやっていられない」そんな感情があることはある意味
では当然でしょうし、後継者が現れない一つの原因でしょう。また
創業時の方々は、お互いみんなよく知っている、気心の知り尽くし
た人が集まった集団であることも、次の世代が参加することを難し
くしているのかもしれません。
このことについては、行政としてなかなかお手伝いしにくいテー
マです。ボランティア育成のための研修、リーダー養成ということ
でのお手伝いはぜひやらしていただきたいと考えていますが、直接
的にはボランティアのみなさんの努力であり、組織内部のコミュニ
ケーションと仲間育成の重要性の認識でしょう。
以上、ボランティアに関していろいろ申し上げてきました。もっと
違う考えがあるとは思いますが、いずれにしても長野市のボランティ
ア活動をもっと盛んにしたいという私の意気込みは、ぜひわかってい
ただきたいと思い、このメールマガジンを書いています。
2002年10月24日木曜日
豊野町からの合併協議の申し入れ
10月8日、豊野町から萩原町長さんはじめ、助役さん、収入役
さん、そして町議会の正・副議長さん、町議会合併問題特別委員会
委員長さんの6名の方が長野市へ来られました。これに対して、長
野市は、私と市川助役、伊藤収入役、小山議長、宮﨑副議長、松木
合併問題調査研究特別委員長さんでお迎えしました。
萩原町長さんから、長野市との合併協議の申し入れがありました。
ここに至るまでの経緯としましては、豊野町では16歳以上の住民
全てにアンケートが実施され、その結果をもとに町議会議員、各種
団体代表者等で構成する市町村合併研究委員会、町議会合併問題特
別委員会で議論を重ねられ、正式に長野市との合併協議の申し入れ
になったわけです。
私は豊野町の決断に敬意を表するとともに、合併は長野市の将来
を占ううえでも重要な課題であり、早急に検討を要するものである
と考えておりました。このため、合併協議を進めるための第一歩と
して、豊野町との間で任意合併協議会を設置することについて、
10月21日に市議会全員協議会を開催し、承認をいただきました。
市町村合併に対する長野市長としての私の考え方は、次のような
ものです。
1.近年の交通・通信手段の発展や経済活動の広域化等により、通
勤、通学、買い物等の住民の日常生活圏は、市町村の枠を越え
て広がっている。行政の垣根をとりはずすことは、社会が発展
するうえで重要なことであろうということは、常々考えていた
ことの一つです。
2.地方分権一括法が成立した現在、いよいよ本格的な地方の時代
がやってきました。まだ財政自主権が地方自治体にあるとは言
えない不十分な状況で、今後の行政や財政の効率的な運営を考
えると、地方自治体の果たすべき役割は現在よりも重要性を増
すことは間違いないでしょう。その時、市町村がきちんとした
受け皿にならないと、地方自治が成り立たない。そのためには、
市町村が一定の規模にないと、多様化する住民要望に応えてい
けないのではないか。
3.政府は合併を促進するために、平成17年3月末までを合併特
例法の期限と定め、様々な支援策を提示しています(いわば合
併促進のための“にんじん”と言っても良いでしょう)。その
方法に反発もあって合併はしないとの方針を打ち出している自
治体もありますが、私は「どうせ合併するのなら、“にんじん”
がある間にした方が良いのではないか」と考えています。
政府の提示している合併の支援策は次のようなものです。
(ア)地方交付税の算定の特例
(イ)合併準備事業への支援
(ウ)新たなまちづくり事業への支援
(エ)国や県の事業の優先採択・重点投資
4.長野市としては、今後、効率的な行財政運営をするため、また、
一層の権限移譲を受け、独自のまちづくりを進めるために、新
たに策定する「第三次長野市総合計画後期基本計画」に政令指
定都市を視野に入れた市町村合併の推進を掲げていくことを検
討しています。
さて、本市としましてはこの申し入れを受け、今後、豊野町との
間で任意合併協議会を設置し具体的な協議を進めてくとともに、庁
内に合併協議を進めるための推進体制の整備を図り、併せて、合併
協議のための情報提供を積極的に進めてまいりたいと考えています。
2002年10月17日木曜日
公共事業悪玉論について
公共事業を止めるべき、あるいは減らすべきという議論が高まっ
ています。確かに日本全体に財政が悪化して余裕がなくなっている
こと、無駄な公共事業が指摘されていること、政治献金とゼネコン
のつながりが告発され、国民の嫌悪感をつくってしまったことなど
が要因にあると思います。また、少子高齢化が進む中で、国民の関
心は公共事業よりも福祉施策の充実へと変わってきており、この背
景には、自然志向というか自然を大切にしようといった、意識変化
なども要因の一つと思われます。さらに加えれば、閉塞感が深まる
中、「将来の子孫に美田を残す余裕はない、現実が大変なのだ」と
いうことかも知れません。
こんな傾向が反映したわけでもないのですが、長野市の平成14
年度の予算は、初めて民生費が土木費を上回りました。土木費の中
には公共事業に必要な土地の購入費も含まれていますので、今年の
場合はたまたま土地購入が少なかったということもありますが、こ
の傾向は今後も続くのかなと感じていることは事実です。
ただ、市長就任以来約11ヶ月、市内各地で「元気なまちづくり
市民会議」と題して行政懇談会を開催していますが、住民サイドの
公共事業期待論、特に道路建設の要求は大変多くあります。もちろ
ん学校のことや保育所、児童館、障害者施設、公民館などの要望も
多いのですが、地区ごとの話になるとどうしても生活道路やバス路
線といった市民の足の部分が多いように思います。
オリンピック前の長野市は、高速交通網の遅れから、「陸の孤島」
といつも自嘲気味に嘆いていたのですが、新幹線の開通や高速道の
整備に伴い、市民の関心は変わってきています。高速交通網の整備
から生活環境の充実へと意識が変わる中で、中山間地の市民にとって、
生活道路への投資はどうしても必要であるということなのです。
過去、オリンピックを前にして、その関連道路に力を入れざるを
得なかったことは事実ですが、オリンピック直後からは、長野市も
生活道路に力を入れています。全般的に財政が苦しく、なかなか事
業が進まないことも事実ですが、でも、こういう公共事業はどうし
ても必要なのです。
国の議論を聞いていても、整備新幹線建設の是非や道路公団の民
営化によるプール制の廃止と不要路線の建設中止など、公共事業の
あり方が大きな焦点になっているようです。
長野市にとってみればオリンピックを契機に高速交通網の整備は
一応出来ていますので(もちろん、高速道については上越市までの
片側2車線化、新幹線については最終的には大阪までの延伸といっ
た問題はありますが)、あまり切実感がないということも事実では
ないでしょうか。しかし、これから造ろうという地域にとっては、
まちの再生をかけた一大事業であり大問題でしょう。地域や国民の
平等感という観点からみれば、当然必要ということなのだと思いま
す。
同じようなことですが、70歳以上の皆さんが市内のバスを100
円で利用できる「おでかけパスポート」事業は、お年寄りの活動範
囲が広がったという意味で大変評判の良い事業ですが、一番つらい
のは「せっかくパスポートをもらっても乗るべきバスが無い」と言
われることです。それを解消しようと必死に取り組んでいますが、
バス会社も採算性の問題などから、簡単にバス路線を増やせないと
いった問題があり、なかなか市民の皆さんの平等感を満たすことは
難しいものです。
公共事業とは少し違う話ですが、公共交通機関の確保、再生は地
方都市にとって大変重要な仕事と考えています。若者が多い時代は
自家用車を運転して、病院へお年寄りを送迎したり、買い物などで
山間部から市街地へ出かけることも簡単に出来ていたわけですが、
現在のように地区によっては高齢化率が30%を大きく超えるよう
な時代になると、それがままならないわけで、お年寄りや子どもの
足をどのように確保するかが問題になってきます。これは、一種の
福祉事業かも知れませんが、市民の重要な要求の一つなのでしょう。
このことは、環境問題の面からも考えなくてはならないことだと
思っています。道路幅を広げ、あるいは立派な道路を造ると、結局
車が増えるという「いたちごっこ」が続いているのです。環境を考
えると、自動車の排気ガスを減らす、エネルギー消費を減らすとい
うことが、今後重要な施策になってくることは事実でしょう。
通勤時間帯、ほとんどの車は一台に一人で乗っています。バスな
ら一台に数十人が乗れるわけで、その結果、何台もの車を通勤時間
帯の道路から減らすことが可能になり、その分、ラッシュアワーの
混雑も無くなって、そこでも排気ガスを減らすことが出来る・・・。
難しい問題ではありますが、いずれ施策の柱になるのではないかな、
という予感がしています。
「環境」は人類の生き残りをかけたテーマなのですから。
2002年10月10日木曜日
旧そごう跡地への信越放送の進出
平成12年の夏、旧長野そごうが自己破産、直後に旧ダイエー長
野店が撤退発表と暗いニュースが相次ぎ、以来、市民はもとより地
元商店街、そして長野市の経済界全てが、オリンピック終了後の景
気の落ち込みを憂え、暗澹たる気分になっておりました。しかし、
旧ダイエービルである長野センタービル(以下、NCB)については、
長野市が取得し、公共施設などにより後利用の方向性が決まりつつ
あるなど、ようやく明かりが見え始めました。
そんな中、8月22日に信越放送(株)(SBC)の塩沢社長が
来庁され、SBCとして中心市街地の旧長野そごう跡地へ進出する
ことを決意したというお話をいただき、さらに、10月8日には管
財人との売買契約が完了し、いよいよ決定したとの話をいただきま
した。私としては、空洞化した長野市の中心市街地をいかに再生す
るかという大命題に対し、具体的な再生策が見えてきたということで、
大歓迎の意を表明させていただきました。本当に嬉しかったというの
が実感です。
今日は、旧長野そごう跡地へSBCが進出するまでの経緯と後利
用について、私の考えをお話いたします。
1.オリンピック終了後の平成11年、長野市は中心市街地の活性化
を目指し、中心市街地活性化基本計画を新たに策定いたしまし
た。その中で、中央通りと昭和通りが交差するあの一角につい
ては、大型専門店を核に分譲住宅、市の公益床、既存商店など
からなる長野銀座A-1地区の再開発計画を進め、商業集積の
場と位置付けてきました。
2.ところが、前述のとおり平成12年に両大型店の破産・撤退が
発表になり、その計画が進まなくなり、画餅に帰してしまった
のです。どうすべきなのか、その間各方面で議論されてきたわ
けですが、論点は概ね次の事柄だったと思います。
(ア)長野駅と善光寺、長野県庁と長野市役所、これらを結ぶこの
交差点は長野市の象徴ともいうべき場所であり、何とかしな
くてはならない。
(イ)最大手といわれたそごう、ダイエーが駄目だったということ
は、物販を中心とした開発は無理ではないか。ながの東急百
貨店などいくつかの例外はあるものの、中心市街地の大型店
は、モータリゼーションの進展と共に発展している郊外店に
押され、全国的に苦戦している。しかしながら、何でも良い
というわけにはいかない。それなりの風格があり、そして街
の賑わいを演出できるものが欲しい。
(ウ)平成の大不況下、特に長野市はオリンピックという大事業の
後という事情も加わり、民間投資が冷え込んでおり厳しい。
しかし、手をこまねいて何もしないということでは、あの場
所に大きな空ビルが相当の期間残ることになり、街にとって
は大変困った状況になる。また、そんなことになったら、長
野市は「不況都市の典型」と言われかねないうえ、今後、長
野市へ投資しようという事業者がいなくなってしまい、街の
発展は望めなくなってしまう。何とか象徴的な場所に投資す
る人がいないか、債権者の八十二銀行、商工会議所、商店街、
地元の方々、そして長野市も、一生懸命考え模索してきたわ
けです。
3.平成14年に入って、長野市がNCBのビルを取得しました。
その経過、理由については以前のメルマガに書かせていただき
ましたので、ここでは省かせていただきます。
4.NCBとは事情が違って、長野そごうは自己破産をしています
ので、資産は裁判所の管轄下に入ってしまいました。管財人や
債権者の立場では早く競売して資産処分するということが大切
なのでしょう。しかし、私はその方々に対し「長野市の将来を
考えて処分を決めて欲しい。競売という手段は、法的には当た
り前ではあるが、誰が落札するか分からない怖さがある。出来
たら任意売買で処理して欲しい。」ということを管財人に対し
てお願いしてまいりました。
5.いろいろな選択肢が考えられる中で、昨年秋ごろから、八十二
銀行や管財人がSBCに進出を打診し始めました。SBCとす
れば、創業以来の歴史的な変革期であるテレビ放送のデジタル
化への投資を目前にして、出来たら中心市街地に出る可能性も
模索されていたようです。また、同社の意思として空洞化した
中心市街地再生のお手伝いが出来るなら、という気持ちもおあ
りになったようです。
6.一方、旧長野そごうの西隣では長野銀座A-1地区再開発事業
が行われることになっていたのですが、こちらの計画はオリン
ピック以降、下落が止まらない地価の影響をはじめ、 社会経
済情勢の悪化や大型店の撤退という予想外の出来事に遭遇し、
テナントを探すことが難しくなり、採算性の問題からそのまま
実行することはかなり難しいといった状況に見舞われていました。
再開発という手法そのものが、いわゆる右肩上がりの経済の時
代における産物のため、動けなくなってしまった、ということ
も言えるのでしょう。
7.そんな状況の中、長野銀座A-1地区の都市計画決定を変更し、
A-1再開発計画を旧長野そごう跡地まで広げ、全体としての
開発を考えようという新たなまちづくり構想が持ち上がりまし
た。商工会議所等でもその線で進めようということでSBCに
陳情したり、八十二銀行、管財人、そしてA-1再開発準備組
合や長野市も加わって、話し合いを進めてきました。さらに、
長野市が3月に設立した長野中央地域まちづくり検討委員会や
議会の中心市街地活性化対策特別委員会のご意見を踏まえたう
えで、今回のSBCの決断につながったという事だと思います。
私は、今回の決定はまだ方向性が決まったという段階であり、詳
細が決まるまでは、まだまだ山あり谷あり、難問は山積みだと思っ
ています。SBCとすれば、2006年のデジタル放送開始という
期限があり、それまでには完成しないと困るという制約もあるわけ
で、早急に解決に向かって動き出す可能性が高いと考えられますが、
長野市が取得したNCBとの有機的な利用ということも大切ですし、
周辺の商店街の協力体制も重要で、それが中央通り全体に波及して
いく効果も期待したいところです。
全国的に中心市街地の空洞化が叫ばれている中で、この計画が上
手く進んで、空洞化解消のモデルとして全国へ発信できる、そんな
事業になってくれればと夢みています。
2002年10月3日木曜日
猪瀬直樹氏を迎えて
9月29日の日曜日に「元気なまちづくり市民シンポジウム」を
長野市民会館で開催しました。当日は、猪瀬直樹さんを迎えて「民
営化の時代」と題し基調講演をして頂きました。
猪瀬さんについてはすでにご存知の方も多いこととは思いますが、
長野市出身で長野高校、信州大学を経て作家として活躍されていま
す。さらに、現在では政府税制調査会委員、そして道路関係四公団
民営化推進委員会委員として大活躍をしておられる方です。失礼か
もしれませんが、「民営化の権化」と言っても良い方であろうと私
は思っています。
私は一年前の市長選の時から、一貫して常用してきた政策手法と
して「行政に民間発想を入れる」と言いつづけてきました。そのた
めにこのシンポジウムに誰を呼ぶかについては、多分迷ったのでし
ょうが、彼を講師と選任した長野市の企画政策部の感覚は悪くない
なあ、と感じています。まさに呼びたかった人、そしてテーマでし
た。
この講演会は、本年度第三次長野市総合計画の後期基本計画の策
定に当たり、いろんな方のご意見をお聞きする、いわゆるパブリッ
クコメント(注)の一環としてのシンポジウムでした。
(注)パブリックコメント=行政機関などの意思決定過程において
広く国民に素案を公表し、それに対して出された意見・情報を考慮
して意思決定を行うもの
長野市の第三次総合計画は、平成11年度から平成22年度まで
の12年間の計画です。それを前期と後期に分けて、平成15年度
までが前期基本計画、平成16年度から後期基本計画がスタートす
る予定でした。しかし、私が市長に就任した平成13年11月の時
点で長野市をとりまく環境は、この計画を策定した時期と大きく変
わっており、この計画をそのまま継続することは、無理になってい
ると判断しました。しかし、本市の基幹となる計画ですので、変更
には膨大な資料と審議会等における十分な検討が必要であったこと
から、平成14年度は前期基本計画に従った予算組みを基本にしま
した。その代わり平成14年度中に、後期基本計画を策定して、一年
前倒ししようということを決定し、策定作業に取り組んできたわけ
です。
猪瀬さんの話は、聞く人によって感じ方はいろいろでしょうが、
「何故、今、民営化か―単に四公団の話ではない、日本人のライフ
スタイルの変更なのだ、このままでは日本は活力を失う、日本全体
が社会主義化している。大人になること、それはリスクを受け入れ
ることだ。諏訪の「御柱」、岸和田の「だんじり」などは命がけだ
けれど、それは大人になる通過儀礼として必要なのだ。今はその通
過儀礼がない。子どもに言う前に大人がリスクを受け入れなくては
・・・。」
「みんなサラリーマンになってしまった、変化の無い人生を皆が
求めている(それは行政が膨らみすぎたから)、将来に不安がある
から人生のはず、という当たり前のことを日本人は忘れている・・
・。」
私の受け取り方は、皆さんと違うかもしれませんが、彼の話に大
変感激しました。彼の話を長野市に移して考えることの重要性を考
えさせられました。言いかえればこのくらい乱暴な意見の持ち主で
ないと、改革は出来ないのだろうな、と思いました。
猪瀬さんの講演の後は、元信越放送アナウンサーの武田徹さんが
コーディネーター、猪瀬さんがコメンテーターで、総合計画審議会
の塚田俊之会長(長野県経営者協会副会長)、立浪澄子同審議会副
会長(長野県短期大学助教授)、石川利江さん(ISHIKAWA
地域文化企画室代表)、そして私も加わって「元気なまちを目指し
て~未来のために長野改革~」をテーマにパネルディスカッション
を行いました。
それぞれ経済界、福祉、教育、文化・芸術の方面で活躍されてい
る皆さんの実体験を踏まえた有益なお話を伺うことができ、大変有
意義なパネルディスカッションになったと思います。
このシンポジウムを通じ、改めて「元気なまち」に向けて、市民
の皆さんとのパートナーシップにより、積極的に長野改革を実行し
ていこうと気持ちを新たにしました。
引き続き皆さんのご協力をお願いします。
2002年9月30日月曜日
メールマガジン第25号について(お詫び)
9月26日配信のメールマガジン第25号「田中知事にお会いし
ました」において、「裾花川に2つのダムができて以来、浸水被害
がでたことは記憶にありません。」との記載をいたしましたが、こ
の内容は、長野保健所から下流の岡田町地籍で裾花川が溢れ、
街の中に氾濫するというような大きな浸水被害を想定し記述したも
のであります。
なお、「平成7年に上流(妻科地籍)において、浸水があった。」
とのご指摘をいただきましたが、この点につきましては、事実、床
上浸水等の被害があったことを率直に認めさせていただきます。
メールマガジンの配信にあたり、配慮に欠けていたことにつきま
して訂正し、裾花川沿川で被害を被られた皆さんに対し、お詫び申
し上げます。
2002年9月26日木曜日
田中知事にお会いしました
9月20日、田中知事が長野市役所に来庁されました。すでに新
聞等でご存知の方もいらっしゃると思いますが、用件は浅川ダムに
関することでした。
当初は選挙期間中にお話のあった「お出かけ知事室」としてお越
しになるのかなと考え、全庁的に何をお話しすべきかということの
検討をしていたのですが、その後、お出かけ知事室ではなく、浅川
ダムの件でお越しになるということが分かりましたので、長野市と
しては、9月市議会定例会での討論やメールマガジンで明らかにし
ていることをきちんと整理し、申し上げるべきことを事前に準備い
たしました。
当日は、知事や同行者の外にも、メディアの皆さんがカメラも含
め大勢お見えになりましたので市長室は満員、おそらくこんなに人
が入ったのは初めてだと思います。
田中知事が言われたことは、
1.浅川ダムを止めることについて了解して欲しい。
2.浅川の治水について、議会に示した枠組みのお話があり、ダ
ム無しの代替案を作成するので協力して欲しい。
という二点が中心でした。
私からは、選挙期間中に知事が今後市町村と十分話し合っていく
ということを言っておられましたので、あえてそのことを確認させ
ていただいた後、選挙期間中に個人的な批判をしたつもりはないが、
もし誤解して受け止められているようなら申し訳ないとお詫びした
上で、ダムに関しては、次のようにお答えいたしました。
1.ダムを止めるということについては、事業主体の県がおっしゃ
ることですから、長野市としては賛成とか反対とかのコメント
は控えさせていただく。なぜなら、私は治水にこだわっている
わけで、その手段であるダムにこだわっているわけではないか
らです。
2.県では推進本部をおつくりになって治水の代替案を検討してお
られるそうですので、長野市としては代替案が示された後に、
検証して対処させていただく。
ということです。そして、長野市としては今後の課題として二つ
に分けて考えているので、対応をお願いしたいと申し上げました。
その二点とは、
1.ダムを造るにあたっては長野県と長野市、それと地元の対策委
員会等と結んだ確認書、契約書等がいくつもある。これらは治
水問題とは関係なく、ダムを止めるとすれば、一括解決しなく
ては行政の信頼は失われる。県がダムを止める以上、まずこの
問題に主体的に取り組み、至急解決して欲しい。もちろん長野
市も契約の一方の当事者でもあるのでお手伝いはする。
2.もう一点は浅川の治水問題で、これについても新幹線にからむ
県、市、鉄建公団と地元との確認書が存在するし、契約書はな
いまでも、何十年かの間、地元住民の皆さんと積み重ねてきた
約束が沢山ある。これらについては、県が作成する代替案が示
されてからでないと対処出来ないので、なるべく早く示して欲
しい。その後、長野市からの提案として、国、県、関係市町村、
地元団体等と協議会を作って話し合ったらどうか、という意味
のことを申し上げました。
知事からは「ダム無しの代替案作りを長野市も一緒にやって欲し
い。」というお話がありましたが、私から「県知事の脱ダム宣言以
来、河川の安全度を切り下げないで、ダムによらない代替案を長野
市なりに検討してきた。しかし、財政的な問題も含め、流域の状況
を考えると実務的には困難であるという報告を受けている。一緒に
と言われても、長野市としてこれまで検討してきた以上の治水対策
の提案をすることは困難と考えられ、かえってご迷惑になる可能性
もある。ご相談があれば、もちろん最大限の協力はさせていただく
が、基本的には代替案は県の責任で作成していただきたい。なお、
あえて“一緒に”というご要請であれば、庁内で検討します。」と
お答えいたしました。消極的と取られたかも知れませんが、現実的
な問題としては仕方ない対応と考えています。
会談の中で知事は、県の土木部では「ダム無し」での治水は可能
であり、その可能性を実現する立場に立っており・・・・・・とお
っしゃっているわけですから、その理由、根拠、データ等を是非と
も具体的にお聞きしたい、それを基に長野市としても検討していき
たいと考えています。
私から提案した協議会の設置については、平成9年に改正された
河川法のもとで河川整備計画を変更する場合には、流域市町村の意
見を聞くことが義務付けられていますし、国の認可も得なくてはな
らない。そうであるならば、皆が一堂に会して話す方がスムーズに
いくのではないかと、県の立場を考えた上での提案だったのです。
しかし、会談後に行われた県庁での記者会見の席上、知事は否定的
な見解を示されたようです。
私とすれば、県から代替案が提案されて意見を求められた場合、
市民の意見はもちろんですが、国や流域市町村の意見を聞かなけれ
ば、長野市として勝手な答えは出せないと思いますので、一堂に会
して協議する方が早いと考えた上での提案だったのですが、ご理解
いただけなく残念です。
以上が田中知事との会見の内容ですが、長野市長とすれば、知事
の脱ダム宣言を受けて以来(私個人は途中からですが)いろいろな
問題を庁内組織で検討してきた結果を誠実にお話ししたもので、こ
れで良かったと考えています。
ちょっと意外だったのは、浅川の治水対策は「最初にダムありき」
ではなく、昭和40年代に長野県が行った沿川住民への提案は河川
改修案であった。しかし、それではどうしても河川の幅が広くなり
すぎるということで、地元の理解が得られず、結果としてダム案が
浮上したという事実をお知りになっていなかったように感じたこと
です。
なお、この問題については、私が治水の安全度の切り下げは絶対
に困る、ということを申し上げている根拠を最後に付け加えさせて
いただきます。
具体的な例をあげるとするならば、裾花川(浅川ではありません)
は過去に何度も氾濫し、長野駅周辺から犀川の周辺まで水浸しにな
った記録が幾つも残っています。その裾花川に2つのダムができた
のは昭和40年代から50年代にかけてのことでした。それ以来、
浸水被害が出たことは私の記憶にはありません。以後、裾花ダムは
私達長野市民の水瓶としても毎日お世話になっていることは皆さん
ご承知の通りです。
平成7年7月に梅雨前線の影響で大雨が降って、裾花川の堤防が
溢れる寸前になったことは、まだ記憶に新しいと思います。でも、
裾花川には2つのダムがあったからこそ、ぎりぎりのところで溢水
せず助かったことは事実であり、そのダムは国の従来の安全度の基
準に基づいて造られていたのです(浅川ダムの計画も同じです)。
もし裾花川が国の安全度の基準を下げて造られていたら、どうな
っていたのだろうか。結果論ですので、「もし」という話は意味が
ないかも知れませんが、私は大変な事態になっていたと思います。
ましてや、最近は世界的な異常気象と言われており、いつどんな雨
が降るか誰も予測がつかないのではないでしょうか。せめて国が決
め、全国で実施してきた安全率は最小限守る、それは行政として当
たり前のことだと思っています。
「ダム無しで安全が守れる代替案」を是非作りたい、それが現在
の心境です。
2002年9月19日木曜日
若穂川田地籍で林野火災が発生
長野市総合防災訓練の翌日の9月1日に若穂川田地籍で林野火災
が発生しました。私は連絡を聞き、すぐに現地に向かいましたが、当
日は強い風が吹いており、現地は山のあちこちから煙があがっており
ました。通常の火災の範囲を超えていることや急峻な地形からみて、
消火作業がなかなか進まないと判断し、災害対策本部設置を決定しま
した。
火災の発生原因は、お年寄りが果樹栽培用の袋を燃やしていたと
ころ、折からの強風に煽られ、雨が少なくて乾燥しきっていた林野に
一気に燃え広がったようです。普段は日常的にやっていたことなの
でしょうが、予想も出来なかった大きな災害になってしまったという
ことです(昨年安茂里で発生した林野火災も焚き火が原因とのこと
です)。
消火活動は、長野県はもとより近隣県(群馬、山梨、埼玉、岐阜)
へ消防防災ヘリコプターの出動を要請しました。また、自衛隊のヘリ
コプターにも県を通じて消火活動の要請を行い、空から大量の水を
散水してもらいました。各県の消防防災ヘリは1回に概ね1tの水を
犀川や千曲川からくみ上げましたし、自衛隊のヘリは大型ですので
概ね7tの水を小田切ダムや犀川からくみ上げ散水したのですが、
その威力はすさまじく、見ていて大変頼もしく感じました(結局ヘリ
コプターは全部で10機飛来していただき、林野火災に対する有効性
を実感させていただきました。この火災では、消防防災ヘリ及び自衛
隊のヘリが435回にわたり空中消火を実施し、全放水量は622t
に達したとのことです)。
しかし、空からのヘリでの散水は効果が大きいのですが完全には
消えません。また、まずいことに、火災現場に高圧送電線が通過し
ているため、その付近の消火活動には危険が伴いました。このため、
陸上では、長野市消防局職員、長野市消防団の皆さん、そして北信
地域5消防本部からの応援もいただきましたが、消火作業は難航し、
一箇所の火が消えたと思うと、離れた場所から煙があがり、しばら
くすると消えたはずの場所からまた炎があがるといった状況で、活
動する皆さんの疲労は想像を絶するものがありました。一台約80
kgある「小型動力ポンプ」を担ぎ上げたり、20kgもある「背負式
消火水のう」を担ぎ、山を登って消火活動を続ける、そして、徹夜の
監視という重労働を想像してみてください。
3日間に及ぶ消火活動には、延べ1,692人の方が消火活動に
従事していただき、また地元の若穂の方々にも炊き出し等に、ご協力
いただいたことは大変ありがたく、様々な場面でご協力いただいた
全ての皆様に心から感謝申し上げます。
幸いなことに、火は2日目の夕刻には、大きな炎が見えなくなり、
ヘリコプターは撤収いたしましたし、3日目は残火の処理に明け暮
れましたが、その夜、待望の雨が降ったおかげで完全に鎮火し、人
家に被害が出ることなく終わりました。
この林野火災で感じたことをいくつか書かせていただきます。
1.長野県消防相互応援協定の存在は大変ありがたかった。長野
県の協力はもとより、緊急連絡で4県の防災ヘリが飛来して消
火活動をして下さったことは頼もしかった。ただ最高時10機が
飛来したための騒音と砂埃は、これは非常時であることは分か
っていただいたとしても、近隣の方々には大変ご迷惑をかけた
と思います。
2.現地指揮本部を設置した松代消防署若穂分署内でも、情報の整
理と今後の対策のための作業が夜通し行われました。このこと
もご近所の方々にご迷惑をかけたことと思います。
3.近隣の消防本部との協力関係もありがたいことでした。消防機
材も長野市のものだけでは足りず、関係機関から調達させてい
ただきました。
4.非常災害であっても、消防局の職員を全て投入するわけにはい
かない。他にも災害発生の可能性はあるわけで、現に発生日に
は火災も起きていました。その戦力の補完をしていただける消
防団の力は、ありがたいものです。その機動力、活動力は大き
な役割を果たしていただきました。消防団員も普段は自分の仕
事を持ち、一種のボランティアとして活動していただいている
わけですが、災害時には大きな役割を果たす組織です。
5.火災がなかなか沈静しなかった原因の一つには、松くい虫の駆
除のために伐採した木に火が燃え移り、それが上から転がり落
ちてきて燃え広がるということも原因の一つだったようです。
松くい虫対策の方法も考え直さないといけないのかも知れませ
ん。
6.消火活動中、何人かの負傷者が出てしまいました。幸い比較的
軽い怪我であったとの報告ですが、1日も早い回復をお祈りい
たします。
7.普段何気なくやっていることからでも、何かの拍子に大きな災
害になってしまう、お互いに気をつけなくてはいけないと思いま
す。長野市の統計では非火災に分類していますが、渇水期に芝が
燃えたとか、畑のゴミを燃やしていたら枯草に火がついたとか、
そういう類の事故は毎日のように起きています。一歩間違えば、
今回のような大火災につながる可能性がありますので、常日頃か
ら火の用心を心がけていただきたいと思います。
8.ヘリの運航には多額の費用がかかりますが、今回、他県から応
援いただいた消防防災ヘリに関する出動経費等は、(財)全国市
町村振興協会が交付してくれる規定があるそうです。この規定
は、大規模災害発生時に都道府県の範囲を越えて、迅速かつ
円滑な応援活動を促進し、被災市町村の負担を軽減するという
目的のものです。
しかし、県内で応援に来ていただいた消防機関の費用は、それ
ぞれの消防機関が負担するということです。災害の時はお互い
様ということなのでしょう。今年3月下旬に発生しました松本
市の本郷林野火災、上田市の下之郷林野火災には長野市消防局
からも応援出動いたしましたし、これからも他の市町村で災害
があったときは、全力で応援してまいりたいと思います。
それにしても、今回は本当にありがたかった。
市民の財産と生命を守ることは、行政にとって最も基本的な役割
であるということは以前にも申し上げたことがあります。今後も市民、
関係機関及び行政の連携を密にし、災害の未然防止と被害の抑制
に努めていきたいと、この災害を通して改めて感じました。
最後に余談ですが、災害に際して緊急車両に乗ることになりまし
たが、しかし、サイレンを鳴らしながら走る車の前を平然と車が走
行している、交差点でもなかなか止まってくれない。緊急車両には
一刻も早く現地に着かなくてはいけないという大きな役割がある。
ぜひご理解とご協力をいただきたい。併せて道に車を停めて火事を
見物されている方にも、ご協力をいただきたいと感じました。
2002年9月12日木曜日
田中新知事の誕生について
9月1日の長野県知事選挙で、田中前知事が当選されました。私
とすれば、民意が決めたことですから、当然のことながら尊重しな
ければならないと思いますし、新知事には、長野県のために一生懸
命取り組んでいただくことを、期待したいと思います。
県知事と県都の市長は、当然のことながら協力し合うことが必要
だと思いますので、十分連携を取り合って共に県政・市政に取り組
んでいきたいものと考えています。ただ、協力するということは、
全て賛成ということではなく、地方自治体の長である知事と市長が
対等の立場で議論し、お互いに県民益・市民益のためにどうするか
考え、施策を行っていくことであると考えています。
私自身が市長の立場でありながら、今回の知事選において反田中
色を鮮明にしてきたことへの批判は承知しています。それは、1年
8ヶ月間の知事としての田中さんの行動が、どうしても納得できな
いのと、明らかに市民益とは合致していないという理由からであり、
長野市民に対する市長としての当然の責務として行ってきたことな
ので、このことについて後悔はしていません。
田中県政1年8ヶ月間のどこが市民益に合致していなかったかと
いう点ですが、これはいくつかあると思います。私は自身で経験し
てきた長野市にとって明らかに不利益になる点について一点だけ申
し上げてみたいと思います。
私は、浅川ダムを今回の選挙の争点にはして欲しくないと主張し
た手前、選挙中にはこのことについて、できるだけ触れないように
してきました。しかし選挙も終わり、今後改めて論議になると思わ
れますので、申し上げることにいたしました。
浅川ダムのプロジェクトは、昭和60年4月1日、河川管理者・
吉村元長野県知事と水道管理者・柳原元長野市長との間で契約書を
取り交わしてスタートし、国もそれを認可した事業です。そこに至
るまでの経過は長くなりますので省きますが、要は、長野市は浅川
ダムの共同事業者なのだということです。事業の中での長野市の比
率は低いですが、しかし共同事業者であることは事実です。その共
同事業者に対し前知事は何にも相談、話し合いもせずに「共同事業
を止めた」とおっしゃいました。でも、それはおかしい。世の中の
常識として県と市が契約しているものを止める場合には、具体的に
今までの決め事をどうするか話し合い、そして、せめて方針を示し
たうえで理解を求めることは当たり前でしょう。このことが私には
どうしても理解できませんでした。
私は、県が設置したダム等検討委員会の浅川部会に地元市長とし
て参加し、その席上で県はダム無しとした場合の代替案を示すべき
であると主張しましたが、「県はその立場にない」ということで、
とても納得のいくものではありませんでした。これは、行政執行の
責任ある立場として、無責任極まりないものだと感じました。その
後、関係市町の連名で公開質問状という形で回答を求めましたが、
やはり明確な回答はありませんでした。
(詳細はhttps://wwws.city.nagano.nagano.jp/mail-mgz/backno/2002/0723161600.html
をご覧ください)
ダム無しとした場合、県と市における問題はほかにもたくさんあ
ります。例えば長野市は浅川ダムの共同事業者として、県に負担金
として5億6千万円余りお支払いしています。これは市民の財産で
あり、今後も合計で11億円以上お支払いする予定です。契約を破
棄するというなら、この負担金をどのようにされるのですか。
また、計画を認めてもらうに当たって地元の皆さんといろいろな
約束というか、協定をしているのですが、それも全て反故にするの
ですか。例えば現在、鐘鋳川など三本の中小河川の水を浅川に放流
していますが、それは地元の皆さんとの話し合いで、下流域の河川
の負担を軽くするために、浅川ダムができるなら計算上水害になる
可能性は低いので受け入れましょうということで決まったことで、
県がそれを認めた事業です。既に非公式には、ダムが出来ないなら
あの河川の水は浅川へ入れることを拒否するというお話も聞いてい
ます。
さらに、新幹線の車両基地の建設に当たっての約束はどうなるの
ですか。当然のことながら新幹線の長野以北延伸の時、問題になる
話です。基本高水流量が450立方メートルについても当面の目標
ということではなく、きちんとしたものにしていただくことは当然
でしょう。一つの条件を前提として進められてきた事業の場合、市
町村の立場というのは理念だけで解決できるほど単純なものではな
く、具体的な方策を説明し理解をいただかなければならないのです。
こういう重要な決定をするうえで一言の話し合いもないということ
が私の我慢できなかった理由です。
ローマの昔から都市にとって、水は大変重要であるということは
広く認識されていることであります。長野市は幸い先輩方の努力に
よって現段階では心配なく、市民の皆さんに安心していただける状
況です。ただ長い将来を考えたとき、危機管理という立場から水源
は「多様」にすべきであること、ポンプアップ等をせずに「自然流
下」でコストの安い水が得られること、等の観点から検討した結果、
先輩の皆さんは浅川ダム以外に新しい水源を見つけることは困難で
あるとの結論に達し、ダムから水道水を取水するという決断をされ
た。私はこの決断は目先のことにとらわれず、将来を見据えた素晴
らしい決断だったと信じています。契約の履行を要求するのは、当
然の行為であり、市民益です。
以上、私が今回の選挙に当たって考えたことです。ご理解をいた
だきたいと思います。当然のこととして、今後県には納得のいく具
体論をお聞きし、話し合っていきたいと思いますし、地元の皆様と
もお話していかなくてはならないと考えています。
行政の継続性ということはどういう意味か、最近分からなくなっ
てしまいました。直接選挙で選ばれた地方自治体の首長というのは、
前政権の約束事には責任はもてない、守る必要がないのだから全て
壊してよいということなのでしょうか?
最低限、影響を受ける人、責任のある人に説明をする義務がある
と私は思います。それが真の意味での情報公開であり、説明責任で
あり、私の言う説得責任なのです。
2002年9月5日木曜日
改革の本質(その2)
先週号では、改革ということをテーマに取り上げ、その中で、第
1のポイントとして既存の枠組みからの脱却について、第2のポイ
ントとして改革のための説得責任について配信しました。
今週号では、前回お伝えできませんでした改革のポイントについ
て2点と、長野市の改革を今後どのように進めていくのかについて
書いてみたいと思います。
(先週号はこちらをご覧下さい)
https://wwws.city.nagano.nagano.jp/mail-mgz/backno/2002/0829091141.html
改革の第3のポイントは、民営化をする場合に競争条件が整うか
ということです。戦後に行われた電力会社の民営化の経緯からみて、
民営化しても地域独占の考えでは競争条件は整わず、一定の期間
は良いとしても、本当の意味でのサービス向上にはつながらないで
しょう(電力会社も最近は規制緩和で、多様な取り組みがなされる
ようになってきました。独占は良くないという流れでしょう)。
競争条件が備わってこそ、より良いサービスが期待できるのだと
私は思います。道路公団の民営化という命題は、競争条件の整備
という点からは難しそうで、ひと工夫いるところでしょう。併せて
民営化のマイナス要因をきちんと説明することも大切だと思います。
改革の第4のポイントは、結局は人件費の問題にたどり着くと思
います。平成大不況といわれる今日、民間企業は中国等へ安い人
件費を求めて進出したり、リストラしたり、あるいは賃金カットに踏
み切ったりと、極めて厳しい生き残り策をとっている中で、公務員や
その外郭団体等の職員は倒産がないから、のうのうとしていて給与
も高い、楽で良いなあという感じで、公に対して不満がどんどん大
きくなっているのが現実でしょう。
また、長野市の上級職職員の採用試験に千人を超える応募者が
あったことは、これを喜んで良いのかどうか困っています。公務員
志望がこんなに多いというのは、決して良い社会ではありません。
9月号の文芸春秋に猪瀬直樹氏の発言として、大赤字で悩んでい
る本州四国連絡橋公団の総裁の年俸が2500万円と書いてありま
した。退職金はどうなのか知りませんが、昔、国の官僚は組織を渡
り歩いてその度に大変な金額をもらっているという話を聞いたこと
があります。公団の総裁の仕事がどれだけ大変かは知りませんが、
本来的には公務員OBの二度目のお勤めでしょう。国にはそんな機
関がたくさんあるのだろうなあと思いながら許せない気分になって
しまいます。
昔から、公務員は清貧に甘んじているから権力を与えられる。そ
して勲章も立派なものが与えられるのだと教わってきました(ただ、
最近は民間でも良い勲章が欲しいと運動するようですから、随分変
わってしまったようです)。
長野市にも外郭団体はたくさんあって、そこの管理者は職員OB
にお願いしていることが多いのですが、報酬は二度目のお勤めとい
うことで、現役時の2分の1から3分の1ぐらいの金額です。それでも
皆さん、仕事に意義を見出して頑張ってもらっています。せめて現役
の職員の平均ぐらいは支払いたいと思ってはいますが・・・。
今年の人事院勧告は初のマイナスということだそうですが、ようや
くかというのが私の感想です。平成18年度から公務員制度も変わ
り、業績評価とか成果配分の考えや降格という民間では当たり前
の発想が入るようです。いささか遅いとは思っていますが、徐々に
行政も変わるようです。
最後に、私は長野市長選に立候補するに当たり、「長野改革」と
いう言葉を標榜してきましたが、私の目指す「改革」とは、民営化
のみを指して言っている訳ではありません。もちろん長野市が行っ
ている事業の中で民営化可能なものは全て民営化したい。具体的
には、既に行政と民間が同じことを競合的にやっている分野、ある
いは採算的に考えて十分民間でやれそうな事業、民間の方が良い
サービスを提供できそうな事業、そういうものを今検討しています。
でも、改革はそれだけではありません、まず長野市職員の意識改
革に取り組んでいます。例えば
1.何か新しい提案があった場合、行政の人はまず出来ない理由を
探してしまうことが多い。そうではない、まずやることを前提
に考えよう。結果的に出来ないかも知れないが、まずはやるこ
とを前提に考える癖をつけよう。
2.スピードを上げよう。どうもお役所仕事は時間がかかる。
時と場合によっては朝令暮改は悪いことではないと考えよう。
3.情報公開に伴う説明責任は、説得責任も伴う。
4.財政問題を常に考えて取り組もう。
5.現場主義に徹しよう。
まあこんな点に力を入れて意識改革に取り組んでいます。
以上、私の考えている改革の本質です。私は確実な形で民間発想
を行政に入れることを念頭に力一杯取り組んでいきます。
2002年8月29日木曜日
改革の本質(その1)
道路公団を「潰す」とか「潰すな」という議論が激しくなってき
ました。小泉さんの改革路線について、スタートは凄かったけれど、
どうも腰砕けで人気も低下してきているとか、言葉で改革と言って
も、実際に改革が進むかどうか分からないといった意見があるよう
です。もちろん、私たちは、国鉄のJRへの転換、電電公社のNTT
への転換など、お役所仕事から民営へ移行することで、素晴らしい
経営体が生まれ、サービスも大変良くなっている。民営化の成果が
上がったなあということを目の当たりにしています。これから先も
ぜひそうなって欲しいとは思いますが、果たしてどうなのでしょう
か。
小泉首相の次のターゲットは、郵政民営化や道路公団の民営化な
のでしょうし、さらにその先には、学校等の教育機関かなと私は感
じているのです。いずれにしても、全て上手くいくかどうかは、十
分検討していかなくてはならないテーマです。
今回は、改革の本質とは何かについての4つのポイント、そして、
長野市における改革をいかにして進めていくつもりなのかというこ
とについて、2週にわたり私の考えを配信してまいりたいと思いま
す。
改革の第1のポイントは、既存の枠組みをとにかく壊すことでし
ょう。既存の枠組みというのは、過去の歴史の中では社会の必要組
織であったものです。ただ時代の流れの中でもう役目は終わった、
いらなくなった、あるいは形を変えた方が良いと思われるものがあ
ることは事実で、そういうものを壊そうということです。しかし現
段階、その既存の枠組みの中で働いている方もいるわけですし、注
文をもらって商売をしている方もいるし、もちろん国家の重要な仕
事をしている、社会的に有用な仕事をしているということで、誇り
をもっている方も沢山いるはずです。抵抗勢力が生まれ、組織温存
を図る動きは当然でしょうし、遅々として進まない場合が多いので
す。また堺屋太一さんがよく言われていますが、人間は過去の成功
体験があるとなかなかそこから離れられないというのは事実でしょ
う。
また、考えなくてはいけないことは、全てを壊そうというのはい
かがなものか、ということです。そして仮に壊すとしても、壊して
どうするかという見通しを、きちんと説明する必要はあるのだろう
なと思います。守旧派あるいは利権構造がはびこっているという意
見が全て正しいわけではなく、かといってそういうものが全く無い
というのも嘘でしょう。要は何が不要か、改革すれば効果が上がる
かということをきちんと見分けることが大切なのでしょう。
改革の第2のポイントは、その必要性を国民、あるいは市民に分
かってもらえるか、ということ、すなわち説得責任が果たせるかと
いうことです。民営化が時代の流れということは大多数の国民は、
理念的には理解しているのです。ただ劇的な変化は望まないという
のも一般的なことなのでしょう。小泉さんの持論である郵政民営化
論に対し、反対論を述べている人たちには、それなりのご意見があ
るわけで、国民の幸せを考えて、民業圧迫とか、効率が悪いとかい
われても、公共機関としての必要性を主張される方がいらっしゃる。
その説得が出来るかどうかが全てでしょう。小泉さんが好きだから
といった短絡的な人気投票で決めるべきことではないでしょう。私
見を言わせていただくなら、小泉さんの主張も理念の段階を出てい
ないのではないか。もう少し民営化した場合の郵便局の具体像を、
そして国民の生活にどのような影響があるのか、不利な部分も含め
て説明すべきでしょう。
来週号では、改革のポイントについてもう2点を申し上げるとと
もに、長野市の改革をどのように進めていくのかについて書いてみ
たいと思います。
2002年8月22日木曜日
上越地域との関係について
7月31日に海水浴に行ってきました。これは、長野市母子寡婦
福祉会と長野市の共催による市長の一日父親事業ということで、母
子家庭の父親役として新潟県の谷浜海水浴場に行ったものです。
このイベントは、日頃、一家の大黒柱として家庭を支えながら子
育てを行っている皆さんと、その子ども達の楽しい夏のイベントと
なるよう毎年実施しているもので、今回も総勢150人ぐらいの参
加がありました。私個人としては泳ぎは苦手な部類ですが、お母さ
ん方もたくさん参加され、嬉々として賑やかに子ども達と遊泳や
すいか割りをしたり、食事をしたりして過ごしました。
この市長の一日父親事業は、昭和52年に日帰りのキャンプを実
施したことから始まり、昭和54年からは海水浴が実施されるよう
になり、今回で24回目を迎えました。この事業を始めた頃は、現
在ほど自動車の普及率が高くなかったため、経済的に恵まれない母
子家庭が海水浴に行くことがまだ難しい時期でもあり、また、夏の
レクリエーションとしての海水浴は子ども達にとって憧れでもあり
ました。
平成12年度までは、市内小学校の臨海学校として使っている百
川の海水浴場に行っていましたが、百川の海水浴場の砂浜が狭くな
ってきたうえ、水深が深くなってきたことや、遊泳時間を少しでも多
く確保するなどの事情により、現在では谷浜の海の家を借りて実施
しているものです。
一口に24回といいましても、ここまでこの事業を継続して実施
してくるには数々の困難があったと思いますが、当初から会長を務
めていらっしゃる荒井会長さんはじめ、役員の皆さんはこの事業が
続いていくことを誇りに思い、何日も前から準備をしているという
話を聞きますと、頭が下がる思いです。また、当日は、安全対策や
イベントの企画に万全の準備をしていただいたおかげで、事故もな
く楽しい一日を送ることができました。
長野市母子寡婦福祉会では、夏の海水浴の他にも、冬には飯綱で
のスキーを実施しており、これからも子ども達に楽しい時間を提供
できればいいなぁと思いながら戻ってまいりました。
それにしても、日本海で泳ぐなんて何年ぶりになるでしょうか。
一時は海が汚れ、海岸にゴミが打ち寄せられている時期もあったよ
うですが、最近の環境意識の変化によるものでしょうか、とっても
きれいになっている気がしました。
長野地域と上越地域との関係は、かなり昔からのものです。明治
以降は県境が設定されたせいか、かえって往来は減ったのかも知れ
ません。江戸時代まではかなり近い地域であったようです。さかの
ぼれば戦国時代、上杉謙信と武田信玄が川中島で大合戦をやったこ
とは有名ですが、小説「天と地と」を読めば、武田に攻められた
信濃の豪族がみんな上杉に助けを求めたように、そんな時代以前か
ら海なし地域の信州にとって、上越との交流はかなり深かったと思
われます。私的なことで恐縮ですが、我が家の先祖は現在の本願寺
長野別院(戦前は正法寺という浄土真宗のお寺)が糸魚川から移っ
てきた際についてきたという伝えが残っていますし、江戸時代には
上越地域から信州にお嫁さんが来たという記録が残っています。こ
のようなことからも、上越地域との交流がかなり昔からあったと思
います。
近年では、直江津港の整備も進んでガントリークレーン(注)が
設置されたり、外国との定期航路も生まれて、長野の企業の利用も
増えているようです。また昭和40年代の早い頃から、長野と上越の
商工会議所が毎年定期的な交流を続けており、その場に両市の市長、
理事者、議長及び議会関係者も入って毎年交互に開催しています。
長野上越経済協力会もそのことをベースに生まれました。長野オリ
ンピックの時には上越側にも随分応援してもらいましたし、上信越
自動車道の整備、北陸新幹線の長野以北の整備ということでは、協
力して国に働きかけたりしています。そういえば、直江津港の整備
費用として、長野県が毎年わずかではありますが協力していること
も、長い目でみると両者の関係を保つのに、有効でしょう。直江津
港では現在99haに及ぶ大きなふ頭などを造成中なのですが、そ
こに中部電力と東北電力がLNG(液化天然ガス)の火力発電所を
建設する予定になっており、この電力は当面長野県へ向けて送電さ
れるものだそうです。長野の電力は現在中部地域の浜岡原子力発電
所等からのものが多いのだそうですが、その電送路の幹線に、もしも
の事故があった場合は、長野県内は大停電になる可能性があるわ
けで、上越からの送電が確保できることは、長野にとって危険分散
ということでは、大変なメリットになるはずです。
(注)ガントリークレーン=港湾などでコンテナなどを積み下ろす
ための巨大クレーン
いずれにしろ、両市が高速道で結ばれ、あまり遠くない将来、新
幹線も繋がるわけで、今後交流は飛躍的に進むと思われます。上越
側の事情とすれば、県都の新潟市へ行くより長野市へ来るほうがは
るかに近いわけです。長野市側からみても、直江津港は長野の海と
いう位置付けで、そこから海外への飛躍が考えられる、夢が膨らむ
関係が進むことを期待しています。ひとつ気になることは、高速交
通網で結ばれて経済交流が盛んになることは嬉しいことですが、長
野の企業が新潟県へ進出するのと、新潟の企業が長野県に進出する
のと、どちらが多いかということですが、今の所、新潟の企業の方
が少し元気が良いのかな・・・・・と感じています。
2002年8月15日木曜日
長野の夏祭りについて
長野の夏祭りが各地で行われています。篠ノ井合戦まつり、若穂
ふれあい踊り、そして長野びんずる、飯綱火まつり、権堂の七夕ま
つり、長野駅前の盆踊りなど、数え上げればまだまだ沢山あるよう
ですし、秋になれば市内各地の神社で昔からのお祭りも始まります。
その中で最初にあげた三つのお祭り、すなわち、びんずる踊りにつ
いて今日は述べたいと思います。
長野びんずるは、昭和46年に始まりました。以前、長野市には
夏祭りとして「祇園祭」というものがあり、各地区に引き継がれて
いる伝統の屋台が出て街を練り歩き、夏の風物詩として全国的にも
有名であったようです。でも時代が変わり、交通事情も変わって屋
台を出す年番の町内会もいろいろな面で力を失い、昭和30年代に
は毎年屋台を出すことは難しくなり、商工会議所や青年会議所の力
で、祇園祭の時期に広告祭りをやったり、城山公園で「火と水と音
楽と若者達」というお祭りをやったりしてきました。私も当時青年
会議所のメンバーで一生懸命努力したものです。
昭和45年の夏祭りが終わって、青年会議所の中で反省会が行わ
れ、翌年には商工会議所に対しいくつかの提言を行いました。その
内容というのは、
1.祇園祭の時期は梅雨の時期で天気が悪いことが多い、時期を
変えるべきである
2.城山公園は市民が集まる場としては不適当、出来たら街の真
中でやるべき
3.見るだけの祭りはもうひとつ盛り上がらない、市民が参加す
る祭りにすべきである
主としてこんな三つの提言であったように記憶しています。提言
した私達は「すぐ出来るとは思わないし、議論して何年か後にそん
な形になればよいなぁ」ぐらいの軽い気持ちであったようにも記憶
しています。ところが、その時の商工会議所の夏目幸一郎副会頭
(会頭代行)が「生意気なことをいうなら、金のことは何とかする
からお前らやってみろ、それも今年だ」と言われてしまいました。
当時の青年会議所の理事長土屋磯司さん、担当副理事長塩沢堅吉さ
ん、市民祭委員長青木恵太郎さん(後にびんずる大魔王と尊称され、
現在会議所の副会頭です)の面々はかなりびっくりしたようですが、
言い出したのは我々ですから仕方ないでしょう。一気にその年の夏
祭りとしてやろうということになって、時間と戦いながら、準備に
かかりました。
時期の問題は、一番雨の少ない時期を長野気象台に問い合わせた
ところ、一番は文化の日前後、次は8月上旬ということでした。暑
くなくては駄目ということで、あっさり8月の第一土曜日というこ
とが決まりました。祭りの名前はかなりもめました。当初、青木さ
んは「ピンタ祭り」と訳のわからないことを言っていましたが、語
感が似ているから善光寺の「びんずる」で良いではないか、となり
ました。市民祭という行政も援助する行事に、宗教関連の名前はい
かがなものか、とクレームがかなりあったようですが、当時の夏目
市長の、「まぁ、いいや」の一言で決まり。踊りとお囃子は岩井半
四郎さんに依頼しました。ここまで約半年で決めて、しかも連作り
と踊りの普及もやったのですから、本当に偉いことをやったもので
す。青年会議所が中心となって一生懸命にやったことは当然として、
長野市民舞連の皆さんが市内あちこちに生まれた連を訪問して、熱
心に踊りの手ほどきをして下さいました。自治会や企業は連を作る
ために奔走してくれましたし、警察とは中央通りを全面開放にして
もらうべく、交渉が行われました。当時は市民祭とはいっても踊り
のために道路を開放するなどという発想は画期的なことでありまし
た。歩行者天国も一般的なものではなく、東京の銀座通りの歩行者
天国が始まったのが昭和48年ということですから、中央通りを開
放することに警察も大変苦慮されたようです。
ちなみに長野の歩行者天国は、何回かの試行を経て、昭和48年
9月から始まりましたが、大変先駆的な取り組みであり、全国で二
番目という話も聞いております。(ただし、一番目が何処であった
か、はっきり覚えていないのですが・・・)
そんな苦労をして、やっと「びんずる」の当日を迎え、夕刻、交
通規制された中央通りが連で埋まった姿を昭和通りの角から見上げ
て本当に嬉しかったことを覚えています。
篠ノ井、松代、そして当時は吉田でもびんずる踊りが挙行され、
その後、若穂や川中島でもびんずる踊りが行われるようになりまし
た。現在は行われていない地区もありますが、それぞれ歴史を重ね、
長野市の夏祭りとして定着し今日に至っております。
2002年8月8日木曜日
オリンピック・パラリンピックの資産(その2)
先週号では、オリンピック・パラリンピックによりもたらされた
有形・無形の資産のうち、ホスピタリティーや国際感覚の向上とい
った無形の資産について書かせていただきました。今週号では、
もう一つの大きな資産である有形資産の整備についてと、日本の
長野から世界のNAGANOへの躍進についてご説明を申し上げた
いと思います。
有形の資産とは、両大会の実施に関連し整備された公共施設、
すなわち、私たちの生活を便利で快適にしてくれる資産。そして、
目で見て長野市の変貌を実感できる資産と申し上げるのが最も分か
りやすいと思います。
これらの資産としては、長野市の社会基盤、すなわち各種のイン
フラ(注1)が急速に整備されたということでしょう。国内では景気
が落ち込み始めたあの時期に、長野市では両大会の開催に関連
してビッグ・チャンスに恵まれました。
(注1)インフラ=都市の基盤となる道路・鉄道・上下水道・電気・
通信などの施設。社会整備基盤
準備段階によく言われたことですが、21世紀になれば、日本は
急速に老人国になり活力を失う。そして公共のインフラを整備する
ピッチは相当ダウンせざるを得ないということが言われていました。
そんな中で長野は大きな国家プロジェクトを迎えて、いろいろな整
備を短時間に行うことができました。いわば20世紀最後のチャン
スを長野は掴んだのだと言えると思います。インフラについては、
性格の違ういくつかの例があげられるでしょう。
1.なんといっても新幹線、高速道といった高速交通体系の整備で
ありましょう。オリンピックがなければ、新幹線の開通時期
も不確定でしたし、オリンピック開催都市になったことにより
フル規格に決定したものです。建設にあたっては反対運動もあ
りました。でも、県外から乗り込んで反対した人は別にして、
最後は長野オリンピックのために合意して間に合わせていただ
きました。その後、新幹線や高速道の影の部分もありますが、
素晴らしい世界を創り出してくれたと私は思います。
2.高速系以外の交通網・道路整備は、白馬線をはじめ、いわゆる
オリンピック道路等、そして市内の道路もですが、大変便利に
なりました。道路一本で、地域の流れが全く変わってしまうこ
とに私達はびっくりするくらいです。
3.競技施設として整備された、エムウェーブ、ビッグハット、ホ
ワイトリング、スパイラル、そして若里市民文化ホール、フル
ネットセンターもオリンピックの資産です。これらの建物はコン
ベンション誘致するための長野の大きな武器ですし、スポーツ
を軸にして街造りをする象徴です。
4.民間でも市内にホテルがたくさんできたこと、街並みが整備さ
れたことも大きかったと思います。オリンピック後に不況が進
んで、ホテルの経営者の皆さんは御苦労されているようですが、
ホテルという都市施設を造っていただいたこと、長野が一流の
街と言われるためには、絶対に必要なことだったのです。
5.急速なIT社会の進展に先立ち、通信インフラが他都市より早
く整備されたことも意義あるものでした。NTTさんの協力で、
光ファイバーが長野市の全ての小中学校に繋がっている、これ
は凄いことなのです。学校がフルネットセンターと結ばれたこ
とにより、教育利用の場面では、ビデオ・オン・デマンド(V
OD)(注2)という、全国がうらやむ環境が出来ており、学
校もフルに利用しています。以上インフラの整備は、公共事業
がドンドン減少している中で、約10年分を先取りしたといわ
れているのが実情だと思います。
(注2)ビデオ・オン・デマンド=見たい映像を見たい時に簡単に
見ることができるシステム
これら、様々な分野においてインフラ整備が進んだことからも分
かるように、オリンピック・パラリンピックによって私達は少なく
とも他の市町村にはない素晴らしいモノを手にしたのです。こうい
う便利なものを当たり前のように使いその恩恵を受けていながら、
悪口をいう人の神経は私にはわかりません。
しかし、残念なことにこれらインフラ整備が急速に進んだことに
より、影の部分も現れたことも事実であります。根本的には、オリ
ンピック招致が決まった頃から始まった日本のバブル崩壊とそれに
伴う平成大不況、さらに、どこのオリンピック開催都市でも経験す
る宴の後の落ち込み、この二つが重なってしまったことは、長野に
とって不運だったと思います。新幹線が出来て、東京からの日帰り
客は増えたが泊まる人が減った、と言う声がありますし、インフラ
整備を10年以上先取りしたが故に、公共事業が激減した、という
話もあります。
資産はまだまだあります。今街づくりの中でバリアフリー(注3)
とかユニバーサルデザイン(注4)の街と言った努力も多分資産の
一つでしょう。2005年、スペシャルオリンピックス(注5)が
長野で開かれます。この大会でも素晴らしい感動を呼んでくれること
でしょうし、そんなイベントにぜひしたいものだと思います。
(注3)バリアフリー=建築設計において、段差や仕切りをなくす
など高齢者や障害者に配慮すること
(注4)ユニバーサルデザイン=障害者・高齢者・健常者の区別なし
に、すべての人が使いやすいように製品・建物・環境などをデザ
インすること
(注5)スペシャルオリンピックス=知的発達障害者に、日常のス
ポーツトレーニングプログラムと競技会を提供するボランティア
活動で、IOC(国際オリンピック委員会)からも「オリンピック」
という名称使用を正式に認められた、もう一つのオリンピック
最後になりますが、大きな意味での資産の最後は「日本の長野」
から「世界のNAGANO」になったことでしょう。世界中どこへ
行ってもNAGANOという名前を知ってくれていること、これは
直接的な利益はわかりませんが、世界に長野市の文化、人々の
やさしさ、そして感動を発信できたことは、将来の長野市にとって
最大の財産となるでしょう。まぁそれで安住してしまえば、その
うちに忘れられてしまうかもしれませんが、少なくとも現段階では
NAGANO(長野)は、世界中の人々が知ってくださっている。
それを今後どんな風に生かすか、重い課題ではありますが、でも
大きな資産でしょう。
オリンピック・パラリンピックにより得られた有形・無形の資産。
これらを今後どのように生かし活用し、さらに後世にどのように引
き継ぎ発展させていくのかは、本市にとって大きなテーマでありま
す。
後ろを振り向いて後悔していてもはじまらない、前向きに考えて、
この難局を切り開いていくため、これからも、市民の皆さんと協働
しながら、これら資産の有効活用を図ってまいります。
2002年8月1日木曜日
オリンピック・パラリンピックの資産(その1)
1998年の冬に「愛と参加」「ふれあいと感動」をテーマとし
た、あのオリンピック・パラリンピック冬季競技大会が大会史上最
多の国と地域の参加のもと大成功に終了しました。今から思うと何
か夢の中で過ごしていたみたいで、その招致活動からの長い準備活
動を考えると、あっけないようでもあり、また、努力が報われたこ
とへの満足感に私は浸っていたように思います。
その後、IOCのスキャンダルや招致委員会の帳簿問題などが出
て、若干オリンピックの成功に水を差された感もありましたけれど、
私達に有形・無形の資産を残してくれた喜び、そして、その資産は
長野市が大きく変わるための原動力になったと、今でも私は思って
います。丸四年を過ぎて、次のソルトレークオリンピックが終った
今、長野オリンピックが残してくれた資産を再確認することは、将
来の長野にとって意義あることではないでしょうか。
これら有形・無形の資産を大きく分類するならば、4つに分類で
きるかと思いますが、これらについては、簡単に説明するだけでも
内容が多種多様になりますので、二週にわたり配信してまいりたい
と思います。
今週号ではまず、オリンピック・パラリンピックによりもたらさ
れた無形の資産について書かせていただきます。
一つ目の資産は、長野の人がオリンピックを契機につちかったお
もてなしの心、すなわちホスピタリティーやボランティア精神の醸
成ではないでしょうか。両大会の開催に先立ちましては、市内はも
とより全国から大勢のボランティアの申し込みがあり、輸送や会場
整備、警備の場面など、この方々の協力なしにはこれらの大会が、
これほど立派に行えるとは思えないほど充実したものでありました。
特に冬季競技ということもあり、大変厳しい環境の中で頑張ってい
ただいた皆様への感謝の気持ちを忘れることはできません。
さらに、オリンピック後に結成されたボランティア団体の数は大
変なもので、スポーツやコンベンション、まちづくりなどで現在も
積極的に活動を進めております。また、商店街の皆さんの応対振り
はかなり変わったように思いますし、タクシーの運転手さんたちの
応答ぶりは、以前と比べ凄く良くなったと思うのは、私だけでしょ
うか。
全国大会や国際大会が数多く開かれていますが、コンベンション
ビューローが行ったアンケート結果によりますと、長野市を訪問し
たお客様には概ね良い印象を持っていただいているようですし、そ
れらの大会等の運営はボランティアの協力なくては実現できないと
言われるほど、ボランティアの皆さんが一生懸命に目立たない場所
で頑張って下さっています。派手にパフォーマンスしたい人が多い
なかで、本当に頭が下がります。
二番目の資産は、国際化の流れでしょう。外国人に対する違和感
はほとんどなくなったのではないでしょうか。長野にも外国人の方
がたくさん住んでいます。観光で訪れる人も増えているように思い
ます。海外へ出て活躍する人も多くなっているように思います。
特にこの国際化にあたっては、市内の全小中学校が取り組んだ一
校一国運動の成果が大きかったと思います。一つの学校が一つの国
を応援し、その文化や人々とのふれあいを持てたことは、大規模な
国際大会が行われたこと故に可能となったものでありますし、こど
も達にとって最高の思い出になったのではないでしょうか。
一校一国運動を契機につちかわれた国際感覚は、将来国際社会に
飛躍しようとする子どもたちに必ずや心の糧になるはずです。この
交流事業は、IOCの公式プログラムに採用され、今後オリンピッ
クが開催されるたびに、この運動が行われることになります。現に
シドニーやソルトレークでは実施されていました。また、教育環境
が遅れている国や地域に教材やスポーツ用具などの支援をするとと
もに、貧困と紛糾に苦しむ子どもたちに教育支援を行うことを目的
に、長野オリンピック国際協力募金(長野オリンピック・ハーモニ
ー)を設立し、スポーツを通じ平和の大切さを世界に発信すること
もできました。
余談ではありますが、私の友達に深井克純さんという方がいますが、
彼は経営者協会の職員として、NAOCでオリンピック成功に尽力
した後、国際協力事業団(JAICA)に応募してパキスタンに滞
在し、昨年9月11日のあのテロ事件後は、あのアフガニスタンに
駐在し復興のために必死に頑張っています。ちなみに彼の奥さんは
同じJAICAから派遣されて、ケニヤ駐在だそうです。壮大な国
際別居ですね。そんな国際人が現れてきているのです。
これ以外にもまだまだ無形の資産はあると思います。世界のトッ
プ選手が繰り広げた最高の競技は、私たちにいつまでも忘れること
のできない感動を与えてくれました。これら、人それぞれの心に残
っているもの全てが無形の資産なのではないでしょうか。
来週号では、有形の資産と景気の低迷等に伴う影の部分について
書いてみたいと思います。
2002年7月25日木曜日
ごみ問題を考える
20世紀は、大量生産、大量消費、そして「大量廃棄」の時代で
した。科学技術の飛躍的な進歩、そして額に汗して皆が一生懸命
働いた結果、私達は便利で物質的には豊かな社会を手に入れまし
たが、その反面で失ったものもまた多かったのではないでしょうか。
ローマクラブ(注1)が1972年に出した最初の報告書『成長の
限界』は“地球の有限性”についての様々な因果関係を科学的に
予測したものであり、私達に地球の資源は有限だということを教え
てくれましたし、1973年の第一次石油ショックは、資源の枯渇と
いうことが現実の社会に起こり得るということを示唆してくれたの
です。しかし、資源や環境問題を意識していても人間はなかなか
変われない。より便利で、より豊かな生活を夢みて依然として努力
している。海・湖沼・河川・大気の汚染、砂漠化の進行、森林資源
の枯渇、オゾン層の破壊、最近の異常気象など、そんな話を聞くと、
「我々は今破滅に向かって突っ走っているのだ」とおっしゃる識者
の言葉も何となく真実性を帯びて感じられる。そのくらい地球環境
は深刻な状況であり、地球の生き残りに向けて地球全体で考え、
対策を講じなければならないのだと言われています。先進国の温室
効果ガス排出量について、法的拘束力のある数値目標を各国毎に
設定した京都議定書が結ばれたのも、そんな時代の流れを敏感に
捉えたものなのでしょう。天然資源の消費を抑え、環境への負荷
をなくす持続可能な社会の構築が不可欠になったということです。
(注1)ローマクラブ=1968年に世界の科学者、経済学者などが
集まって活動を開始した民間団体。環境・人口問題など地球的規模
の課題に取り組んでいる。
平成12年6月2日に公布された循環型社会形成推進基本法では、
循環型社会を構築するための人類全体の優先順位を示しました。
1.廃棄物の発生抑制
2.使用済み製品の再利用
3.回収品を原材料にリサイクル
4.資源として利用できないごみを製鉄所などでエネルギーとして
利用
5.残った廃棄物の埋め立て等の適正処理
というものであり、この基本法を決めたということは、非常に重
要なことという認識があって、今後いろいろな法律が作られる、そ
の予告みたいなものでしょう。
さて、長野市行政の中で、その趣旨を生かすためにどうすればよ
いか、関係部局が中心になって一生懸命考え、施策に取り組んで
います。今年、長野市が環境マネジメントシステムの国際規格であ
るISO14001を取得したのはその手始めであり、今後「ながの
環境パートナーシップ会議」の皆さんと相談しながら、ダイオキシン
対策、省エネ、温暖化防止、循環型社会への取り組み、ごみ対策
などあらゆる場面で最大の努力をしてまいります。ただ平成13年度
のごみ処理量は、「減量しましょう」という取り組みにもかかわらず、
過去最高になってしまいました。これにはいろいろな原因があるの
でしょうが、まだ分析は終っていません。しかし、ダイオキシン対策
の一環で野焼きを禁止し、家庭にあった小型焼却炉の使用をや
めていただいて回収したので、今までは家庭で焼却していた落ち
葉や枝下ろしの小枝や刈った芝などが、可燃ごみとして出てきたと
いうことが考えられます。全てを堆肥化するのは無理でしょうから、
一時的な問題として受け入れざるを得ないのかも知れません。ただ
いずれにしても、リサイクルや焼却をするには大きなエネルギーと
経費がかかりますので、資源物も含めてごみ総量を減らすというこ
とが、最も重要であることは間違いありません。
行政の立場としては、市民や事業者の皆さんと行政の三者が連
携共同して、環境共生のまちづくりを進める「ながの環境パートナ
ーシップ会議」を通して、ごみ問題の解決をどうしても行わなけれ
ばなりません。
市民の皆さんには賢い消費者として、まずごみの分別というやっ
かいな作業にご協力をお願いします。リサイクルを進めるためのポ
イントは、まず分別、それも技術の進展に伴ってだんだん細かい分
類を示して分別をお願いすることになるのではないでしょうか。
ごみにならない製品等の購入に努めていただくことも必要でしょう。
また、長野市環境美化連合会を通じ、各区の環境美化推進会長さん
にお願いし、ごみの分別・減量に関してリーダーシップをとってい
ただいてますが、こういった地域住民と一体となった取り組みも
さらに必要となるでしょう。
さらに、事業者の皆さんには、製造・販売者としての立場からご
みになりにくい製品等の製造・販売とともに、ごみ発生量の少ない
原材料を使用していただく。また、リサイクルしやすい製品づくり
や使用済み製品の回収システムを考える、等々をお願いしていく
ことになるでしょう。
行政は市民のコンセンサスを得ながら、リサイクル製品などを購
入するグリーン購買、ごみ減量への取り組み、リサイクルのシステ
ム作り、そしてごみ処理の最終処理をすることになるのでしょう。
そんな中、市としてはリサイクルを推進するために、新たな分別
をはじめました。これは、容器包装リサイクル法という法律の要請
でもあるわけですが、家庭ごみの容積比で約1/3を占めるといわ
れているプラスチック製容器包装の分別です。集められたプラス
チックは再生プラスチックの原材料やエネルギーとして効率的にリ
サイクルされることになります。現在、市内の10%のお宅でモデ
ルとして分別していただいてますが、来年度はモデル地区を一部
拡大し、平成16年度には全市で実施できるよう準備をしています。
プラスチック製容器包装を分別することは、最終処分場の延命化
にも直結することなので、ぜひご協力いただきたいと思います。
こうしたそれぞれの役割分担をお願いしてごみの減量に取り組み、
そしてその取り組みが相当の効果をあげたとしても、焼却施設や最
終処分場などの必要性をゼロには出来ないでしょう。もちろん理想
は不必要にしたいけれど、現状の技術水準や社会の仕組みを考える
と、最低限の施設整備をしなければならない、それも迷惑施設的な
イメージを転換し、地域づくりの核になるような施設として整備し、
周辺の環境を美しくする取り組みを最大限にやらなくてはならない
ことを覚悟して、計画段階から地元の皆さんはもとより市民の皆さん
の意見をお聴きする中から整備を進めることが重要でしょう。
長野市の一般会計(平成13年度、約1300億円)に占めるごみ
処理費に関する支出は約38.7億円であり、構成比では約3%
ですが、そのうち約1/4は、各集積所から清掃センターや最終処分
場へ、ごみや灰を運ぶ費用が占めています。この他にも最終処分場、
リサイクルプラザ建設、ダイオキシン類対策工事など施設整備に伴う
経費でも、平成4年からの10年間で約142億円を費やしています。
これらの費用は今後増加することはあっても減ることはないでしょう。
ごみの発生が減らない限りは・・・・・・。でも何とか減らしたい、
税金の投入を少しでも減らしたい。ごみ処理経費の削減のためには
発生するごみの量を減らし、リサイクルも経費がかかることを認識し、
処理する量そのものを極力減らしゼロ・エミッション(注2)をどの
ように図っていくか、民間感覚で何が何でも取り組んでいきたいし、
模索していかなければならないのです。市民の皆さんのアイデアを
ぜひお寄せください。
(注2)ゼロ・エミッション=工場からの排水・排ガス・廃棄物・熱
などの汚染物排出をゼロにする試み。
2002年7月23日火曜日
浅川ダムに関する公開質問状について(号外)
7月10日に市役所で行った市長定例記者会見では、6月議会も
終って、いよいよ本年度事業が本格的に始まるということで、長野
市の施策についていろいろ発表させていただきました。しかし、記
者さん達の興味はどうしてもダム問題にあるようで、発表した事柄
はそっちのけで、ダムに関する質問に集中してしまいました。時あ
たかも不信任可決後、知事がどういう判断をされるかということが
話題の中心であった時期であり、それも無理はないかという思いで
お聞きし、私なりにお答えしておりました。
ただ、よく考えてみると、ダムの中止に伴う諸問題についてこの
約2年間、県から私たち長野市をはじめ関係市町村に何の相談もあ
りませんでした。技術的なことはもとより、地元住民とのいろいろ
な約束事についての対処すべき事柄の話が一度もないという異常事
態に気がつきました。対応が少し遅いというご批判は甘んじてお受
けしますが、これはどうすべきであろうか考えました。記者会見で
質問されても、私の意見、あるいは県が過去長野市も了解して作り
上げてきた浅川の河川整備計画については語ることが出来ますが、
ダム無しによる治水対策は県が何を意図し、どういう計画をもって
いるのか、本当にそれでよいのかということなどを、市民に問いか
けることすら出来ない状況なのです。すなわち浅川沿いの住民の方
に、ダム無しの河川整備計画の具体的な案がないのでは、その是非
について問いかけも出来ない・・・・・・。
そこで、本来的にはダム無し案の具体策をお聞きしたいのですが、
県議会の討論をお聞きしている限りそれはまず無理であろう(現段
階、何も無い?)から、せめてなぜ長野市を含め流域市町に対し相
談がないまま、「止めた」のですか?という問いを投げかけさせて
いただこうということになりました。知事の任期が7月15日まで
ということで時間がなかったため、7月12日に豊野町長さん、小
布施町長さんとは電話で協議を行い、急遽知事宛に質問状を出させ
ていただきました(残念ながら時間の都合により、砥川関連の岡谷
市長さんや下諏訪町長さんへの連絡は出来ませんでした)。当日は
急なことでしたので、知事に直接お渡しすることはできませんでし
たが、政策秘書室の方にお渡しするとともに、写しを土木部長さん
にお渡ししてきました。
2002年7月18日木曜日
大室古墳館のオープン
皆さんは国の史跡の指定を受けている大室古墳群をご存知ですか?
この大室古墳群を多くの皆さんに知っていただけるよう、7月7日
にかねてから整備してきた古墳館が完成し、その開館式と祝賀会が
開催されました。古墳群の真中に瀟洒(しょうしゃ)な建物と駐車
場が整備され、館内にはトイレやお休み所のほかに、古墳の様子が
わかるように分布図、構造説明板、出土品などが展示されており、
あまり大きな建物ではありませんがきれいに整備されていました。
駐車場までの道路の整備が十分ではなく、乗用車でもすれ違いはか
なり窮屈な状態ですが、古代の人々が作り上げたこの古墳を見学に
来ていただければ幸いです。長野電鉄の河東線の大室駅で下車して
いただけば、歩いて15分くらいです。途中には古い神社や田園風
景もあって楽しい散歩道かなとも思っています。
開館式には地元の皆様や関係者が大勢出席していただいたことは
勿論ですが、この大室古墳を国の史跡に指定していただくことに大
変お力をいただいた「史跡大室古墳群整備委員会」の先生方も参列
いただき、大変意義の深い式になりました。特にその先生方の中で、
現在山梨県立考古博物館館長の大塚初重明治大学名誉教授は、昭
和26年に大室古墳群における初の発掘調査に参加されて以来、半
世紀を越す年月の間、先生のライフワークとしてこの調査に取り組
んでこられ、また、戦後のまだ食べ物が少ない時代に村の皆さんか
らリンゴを差し入れていただき、同行学生と食べながら発掘作業に
携わったことなど、思い出話をされました。先生の長いご努力に驚異
と尊敬の念を抱くとともに、古墳の発掘は地元の皆さんと一体になっ
て進めるものなのだということを教えていただいたように思います。
開館式に先立ち、私は寺尾小学校の子供達や校長先生と一緒に、
古墳館から谷あいの古墳群の中を約1時間半にわたり歩いてきまし
た。杉林に囲まれた山道は、里の暑さを忘れさせてくれるすがすが
しさの中、あちこちに古墳が存在し古代へのロマンを駆り立ててく
れました。そして、途中から左手の作業道路に入り、山の上に登って
みると、市内を展望できる素晴らしい景観になります。普段運動不
足の私が、小学校の子供さんに負けてなるものかと一生懸命歩きま
したので疲れましたが、ホワイトリングが真正面にそして善光寺平
が一望に臨める場所に着いたとき、その疲れが吹っ飛んだような気
持ちになりました。
ただ、若干の心配は、この散策路に数ヶ所のゴミの不法投棄が見
受けられたことです。私たちの郷土の貴重な資産を次世代に引き継
ぐため、今後このようなことが起きないような対策も必要になると
思います。
祝賀会では、この古墳にかかわってきた方々、特に当時寺尾中学
校に在籍しておられた故栗林紀道先生、そして若き同僚であった北
村保先生の大変な努力、そして寺尾中学の生徒達の協力があったこ
とを教えていただきました。その時の調査記録が全ての出発点だっ
たようで、北村先生の栗林先生に関する当時の思い出話しは、聞く
者を思わず涙ぐませるようなご挨拶でした。
国の史跡に指定された範囲に存在する古墳は約200ぐらいだそ
うですが、5世紀から8世紀にかけてかけて造られ、この地域に現
存している古墳は500基以上が存在しています。石を積んだ積石
塚がこれほど密集した古墳群がほかに存在しないということですし、
天井が三角屋根をした合掌形石室は、全国でも40例ほどしか知ら
れていませんが、この大室古墳群には25基が分布しているなど、
大変貴重なものであります。その調査はようやく端緒についたとい
うことのようで、調査と整備はこれからも続くようです。
多くの謎を秘めた日本最大の積石塚古墳群「大室古墳群」を、こ
の夏ぜひ体験してみてください。
2002年7月11日木曜日
長野市野外彫刻のこと
去る7月2日に南長野運動公園で第29回長野市野外彫刻賞受賞
作品の表彰式とその作品の除幕式を行いました。これは平成13年度
の分の除幕式で、本来的には今年の3月までに行うべきだったので
すが、三人の作者がそれぞれ製作活動で海外に出ていらっしゃった
りしていたため、日程がなかなか合わずこの時期になったものです。
宮脇愛子さんの「うつろひ」という作品は、水生植物をイメージ
したものでしょうか、水の中から繊細な金属で出来た水草のような
ものが伸びて、風に揺れている、そんな作品でした。前田哲明さん
の「UNTITLED 02-A」という作品は、これも金属で出来て
いましたが、密集した林を想わせるこれまた素晴らしい作品。
いたずらされそうでちょっと怖いのですが、作者は「大丈夫、メン
テナンスもやりますよ」と言ってくださいました。山根耕さんの
「つなぎ石 作品-38」という作品は、10トンぐらいの巨石2個
と8トンぐらいの巨石の組み合わせ、地下100mの石切り場から
切り出した石だそうで、運動公園の池の水ととても合って「作品
にふさわしい場所に置かせていただいて有り難い」とおっしゃって
いたのが印象的です。いずれもどちらかというと、抽象的な作品で
すが、南長野運動公園の雰囲気にはとてもマッチした彫刻のように
感じました。
この野外彫刻賞について少し調べてみました。発案されたのは、
故夏目忠雄市長さんで昭和48年のことだそうです(昭和48年と
言えば第一次オイルショックの年、29年も前のことです)。以来、
毎年3~6作品を設置してきていますが、当初は民間企業の寄付金
に長野市が土台等の設置費を負担するという形で行われてきたよう
ですが、企業もそういつまでも継続は出来ないということになり、
以来、長野市が中心になって資金を出し、柳原市長、塚田市長と
歴代の市長が毎年継続してきているものです。
今年の除幕式で野外彫刻は、総計124作品になりました。これは
凄いことです。これだけの彫刻をもっている都市はまずありません。
これは市内全域を美術館になぞらえた「野外彫刻ながのミュージア
ム構想」を展開し、野外彫刻をとおして芸術文化を身近に感じるこ
とのできる潤いある環境づくりを進めているものであり、長野市の
誇り得る素晴らしい財産として、将来「野外彫刻のまち」ということ
で世界に売り出せること確実です。
ここまで来る事ができたのは、はじめた頃、審査委員長を務めて
いただいた、土方定一(ひじかた ていいち=元神奈川県立近代
美術館館長)さんという大物先生が審査員として権威をつけていた
だいたこと、若手彫刻家の登竜門にしようという意図があったよう
ですが、それが完全に定着したこと、そして過去に入選して設置さ
れた作品の作者から、文化勲章の受賞者が2人出るなど、このイベ
ントが間違っていなかったことを証明していると思います。
ただ、これだけの成果があるのに、一般的な知名度がまだまだ低
い。長野市民にとってもそうですが、市外から、長野の野外彫刻を
見に行こうという声が聞こえてこないことは残念です。宣伝が下手
ということも事実ですが、長野市が広いため124作品が分散してい
て、皆の印象にあまり強く残っていないことも原因ではないでしょ
うか。過去は相当数をそれぞれの地域に分散してきたので、これか
らは皆さんと相談の上、そろそろどこか場所を決めて、集中的に話
題になるような置き方も必要なのではないでしょうか。
当初の選考方法は、いろいろな作品の中から選考委員さんたちの
提案で数点選び出し、買取交渉をし、決定後に設置場所を選定して
いたようです。現在はまず設定場所を長野市が各地区の希望や設置
可能性などを調査しておいて、選考委員さんにその場所を視察して
いただいて、個々の作風からその場所に一番ふさわしいと思われる
方を選定し、交渉するというやり方をとっています。いずれの方法
が良いか、ということは無いのでしょうが、今のやり方は、どちら
かといえば地区要望が強く出て、順番や持ち回りとなることは避け
られないようです。
野外彫刻は永久にその場所に残るものですから、その地域にとっ
ては大切な芸術品として、また、地域のシンボルと考えていただき
たいと思うのは当然として、作者の皆さんにとっても、ご自分の分
身を設置するようなものですし、将来長い間の市民の鑑賞に耐える
ものでなくてはならない。やり直しは出来ないということで、大変
なプレッシャーのようです。これらの作品を大勢の皆様に鑑賞して
いただくため、昭和54年度から野外彫刻めぐりを実施しております。
今年度も5月~11月にかけて、7回実施いたしますが、殆どのコ
ース(定員20名)が抽選になるほどの盛況ぶりです。「広報ながの」
でもお知らせしていますので、お時間がありましたらぜひお申し込み
ください。
長野市とすればこの野外彫刻展がますます発展し、権威が高まり、
話題にもなって、将来「野外彫刻のまち 長野」として世界に情報
発信をしていければうれしいなあ、と夢見ています。
2002年7月8日月曜日
浅川ダムは土石流をとめる最大の手段(号外)
荒れる浅川も最近は天井川の河川改修がかなり進んでいますので、
あまり危機感がなくなっています。某メディアの調査では、流域で
はダムは要らないという人が多いという調査が発表されました。浅
川から100m以内の方を対象にした調査のようですから、昔から
その地にお住まいになっていた住民があまり対象になっていない調
査でしょう。「昔から浅川流域に住んでいる方は、あの辺には家を
造らない。それは浅川の氾濫の危険性を知っているから」そう語る
方もいます。でも、現在そこに住んでいる住民の方々はそのことを
知らない。なぜなら河川改修が進んで、当面は危険がないようにみ
えるからです。でもそれは絶対ではありません。過去にあった雨量、
すなわち既往最大の雨があれば危ないのです。ましてや温暖化が進
んで異常気象で大雨が頻繁に降っている状況では、既往最大より多
い雨が降らないと誰が保証してくれるのでしょう。ダム計画がある
から安心して家を造ったという方もいるでしょう。
ダムがいらないとおっしゃる方に対しては、もし(100年未満
で)50年に一度以上の雨が降って被害があった場合、私は申し訳
ないけれど、長野市は責任を持てません。皆さんがそれで良いとお
っしゃったのですから・・・・・・・・・。そんなことは言えない
ことは分かっています。でもそれではいかにも長野市は可哀相では
ありませんか?既に工事が始まっていたのに、誰かが理念でいらな
いとおっしゃって、流域の方もそれでよろしいとおっしゃっている
とするなら・・・・・・・。しかし、長野市はそれでは困ります、
基本高水流量の切り下げだけは、何がなんでも認めませんよと申し
上げているのはそう言う理屈なのです。自己責任の社会はこのまま
では動かなくなります。
すみません、また基本高水流量の話になってしまいそうです。今
回はその話より、安全性の話をするつもりでした。
浅川上流の土質は崩れやすいと言われています。だから、ダムを
造ってもすぐ埋まってしまい意味がないとダム反対派はおっしゃい
ます。でも、もしそうなら、浅川ダムがなければ、上流からの土砂
により河床はどんどん埋まってしまって、せっかく河川改修を行っ
ているのに、また天井川になってしまうのではないでしょうか?現
に改修が終った部分ですでに1mから土砂が溜まっているという報
告もあります。川の浚渫(しゅんせつ)をすればよいとおっしゃい
ますが、コスト的にかなり厳しいものがあるようですし、その度に
水辺の生態系は変わってしまうでしょう。浅川ダムが完成すれば、
確かにダムに溜まった土砂をどう排除するかという問題はあります。
素人考えですが、このことについては、ダム湖上部の一定区間は地
すべり対策として通常の水位面まで盛り土を行いますので、結果と
して上部からの土砂はここに多く堆積するものと思われます。さら
に浅川ダム湖の周囲には管理用の道路がある上、渇水期にはダンプ
カーや重機が土砂排除のために入っていくことが容易であり、河川
流域での土砂排除より作業は簡単ですし、安全だと常識的には思え
るのですが。
ダムを造っても土砂が堆積してダムの効用がなくなるという説は、
私は間違いだと思います。そういう土質(岩盤ではない)だとする
なら、ダムがなければ、全ての土砂や流木は下流に押し出してくる
わけで、土石流の発生原因や天井川という危険な川になる原因にな
ることは事実のようです。
先日、国土交通省の河川局長さんにお聞きした話ですが、「ダム
は土砂や流木を止め、土石流の発生を防ぐ役割がある。長野県は日
本で一番災害の多い県(面積が極端に広い北海道は別です)であり、
それは長野県の急峻な地形による地崩れが大きな原因です」という
お話をお聞きしました。
先人が治水を一生懸命考え、過去営々と努力していただきました。
それなのに具体策を先送りして理念だけで止めてしまい、流域住民
を危険にさらしてよいのか、ぜひ考えていただきたい。
次回は、それではそのダムそのものが崩れるということが起こる
可能性があるのか、地震とか断層とはどういう関係にあるか、そん
なことを書きたいと思います。ご期待ください。
浅川ダムの平面図・横断面・縦断面と土砂の堆積場所については
http://www.city.nagano.nagano.jp/ikka/hisyo/zumen/asakawa.htm
をご覧ください。
2002年7月4日木曜日
長野センタービル取得問題(その2)
先週号では長野センタービルがどのような経緯で空きビルとなり、
そのためにどのような取り組みをしてきたかを書かせていただきま
した。今週は、長野センタービル取得のためにどのような活動をし、
今後どのように活用していく予定なのかについて書かせていただき
ます。
私は市長に就任する前、商工会議所の副会頭として、また、NU
PRI(NPO法人・長野都市経営研究所)の理事長として、長野
センタービルの今後の在り方について各方面の方々といろいろ話し
合いました。その結果「長野センタービルは長野市に寄付する」し
か方法がないと結論付けました。もちろん私の仲間にも、行政が私
企業の契約行為の中にはいるべきではないと主張される方もいらっ
しゃいましたが、この経済情勢ではあのビルを競売しようとしても
民間では買えない。そうであると、あの長野市の核の場所がかなり
の間、空きビルとして灯りが消えたまま存在することになる。また、
現段階は大変な不況なので民間企業に元気がない、この際はぜひ行
政に出てほしい。景気がよくなったら再び民間が行政から買い戻し
たってよいではないかと考えたことも事実です。
センタービルを長野市が取得するために、ダイエーに対し債権の
切り下げと担保解除の交渉に乗り出しました。(株)長野センター
ビル(以下NCBとします)関係者には、本当に自分たちの財産が
無くなってもよいのか意思確認をしました。残留したテナントの意
思もさぐりました。銀行にもいろいろお願いしました。もちろん弁
護士や会計士にも相談しました。そして、これが最善という考えを
まとめ、昨年8月末、長野商工会議所として長野市に対し、あのビ
ルの取得を陳情したのです。(寄付を前提にしていたのですが、結
果的には残念ながら、2億円を払わざるを得なくなったことは、申
し訳ないと感じてはいます。ただ実質的な価値は、約8億円程度と
いう話もありますのでお許し願いたい。また、この2億円はNCB
には一銭も入らず、ダイエーの担保抹消の対価として全額ダイエー
が取得します。その意味で、長野市はビルそのものの取得のために
2億円負担するのであって、NCBという民間企業の支援をするの
でないこともご理解下さい)
その後、市長になった私は、今までと立場が変わってこのビルを
取得するかどうかを判断する立場になってしまいました。市役所内
の意見、そして議会の意見をできるだけ多く聞くように努めました。
職員の中には「ビルを寄付してもらっても毎年の固定資産税が入ら
なくなる」という意見もありましたが、私は、「ビルを所有してい
る会社はどうせ潰れる、そうすれば税が入らないことは同じだ。
もっと大切なことは、善光寺と長野駅、県庁と市役所、その交差す
る真中の場所、言葉を変えれば長野市の核が消滅しただけならまだ
しも、灯りが消え長く空きビルになることは街の活性化の面から、
なんとしても避けたい」ということを説明してきました。
この議論の最中に提出された意見の中には、長野市がビルを取得
すると、今後この種の問題が生じた際、全てを受けなくては行政の
公平性を保てないという意見がありました。私はこれに対し、1.
長野市にとって有効な資産であり、有効に使える。2.実際価値よ
り相当低い価格で取得出来る。3.商工会議所など、公的組織等が
取得を求めている。という三つの条件を付け、その条件が整ってい
るなら、議会の了解を得て、積極的にならざるを得ないと考えまし
た。
さらに、市民の皆様がこの問題についてどのように考えているか
をお聞きするため、1月20日に市民対話集会を急遽開催しました。
この集会には驚くべきことに516人の市民の皆様にご参加をいた
だき、賛成意見や批判的意見(反対意見は基本的に無かったと思い
ます)、更には具体的な活用方法に至るまで様々な意見が寄せられ
ました。この集会を通し、長野センタービルを長野市が取得すると
いう基本的方向性については、一定の理解をいただいているという
ことを確信する良い機会となりました。
実際に長野センタービルを取得するに当たっては、一部の土地の
賃貸借契約や既存の借家人の権利関係をどのようにするか。また、
ビルの運営主体や改修費等の経費をどのようにしていくかなどの課
題も多くありましたが、関係者の皆様のご協力により解決すること
が可能となり、6月の市議会定例会においてご了解をいただき、正
式に長野市が長野センタービルを取得することとなりました。
ビルの管理運営に関しては、長野商工会議所が主体となるTMO
(注)に委託する方針も認めていただきましたので、今後は、長野
市の財産となったあのビルを市民の皆様が利用しやすい施設とする
ため、公共性の高い市民ギャラリー、市民交流スペース、福祉関連
施設、商業施設やチャレンジショップとして再利用する案について、
検討を進めてまいりますし、これからも、地元商店街の皆様や住民
の皆様の意見をお聞きしていきたいと考えています。
中心市街地の活性化には、核となる店舗のほかに、個々の商店の
魅力なくしては成り立ちません。そのためには行政のみならず、地
元商店街や経済団体等の自助努力、協力体制も大事な要素となって
おり、民間と行政のコラボレーション(協働)により街の活性化を
積極的に進めていきたいと思っています。
(注)TMO=タウンマネジメント機関の略。商店街・中核的商業
施設の整備などの事業を運営・管理する機関
2002年7月2日火曜日
浅川ダムの安全性について(号外)
田中県知事がとうとう浅川・砥川のダム中止を決定してしまいま
した。今後どのような展開になるかは不明ですが、ダム建設が永久
に駄目になってしまったのか、それともこのあと展開が変わって復
活できるのか、それは分かりません。ただ現段階としては、知事の
発言は単なる宣言みたいなもので、実際には発注していた工事契約
は破棄するとしても、法的には河川法に基づく河川整備計画の変更
を作って国の認可を得るという手続きに入るまでは、この問題は一
歩も進まないということになりそうです。
ただ、市長としては、流域住民の生命と財産を守る義務を有する
わけで、今回の知事発言はどうしても納得がいきません。理由は脱
ダム宣言以来一年半の間、ダム推進派にとって全く無駄な時間をす
ごす中で、中止するならどのような代替策をとるかという具体的な
話が一つもないまま、「それは、これから検討します」では、いっ
たい何を考えていらっしゃるのかということです。
当初、浅川ダムの完成予定は平成19年3月だったわけで、この
ダムさえ完成すれば100年に一度の大雨にも耐えられるというこ
とで、みんな枕を高くして寝ていられると考えていたのですが、現
在の状態では安全な日々を送ることができるのかは、何時になるか
分からないということでしょう。
脱ダムは結構ですが、浅川・砥川の治水対策について「工事の一
時中止の為、もしかすれば2年ぐらいは遅れるかもしれませんが、
代わりにこうしますから皆さん安心して下さい。」という具体策が
ない限り、首長としては絶対に認めません。また、河川整備計画の
策定においても市町村長の意見が一番重要ということを、国土交通
省の河川局長さんから確認してきましたので、このこともお知らせ
しておきます。
さて、県議会で知事のダム中止発言がある前までは、あのような
論理性に欠けた検討委員会の答申を読んで「やっぱり浅川はダムが
必要なんだ」と知事が考えられるのではないか、という淡い期待も
あったことは事実です。従ってあの発言があるまで私は、答申のあ
り方については批判してきましたが、知事への批判は控えてきたつ
もりです。しかし、6月県議会において「あの答申を尊重する、ダ
ムを止める、具体案として緑のダムと遊水地」との発言をお聞きし
て、これは駄目だと判断し、長野市、豊野町、小布施町の流域三自
治体はもちろん、砥川の岡谷市、下諏訪町の首長さんたちと連携し
行動をおこしました。長野県市長会としても異例の速さで反応し、
知事や県会に対し「具体案を早く」という陳情を行い、国に対して
も意見を求めてきたわけです。
さて、私はこのメールマガジンで数回にわたり、浅川ダムについ
て基本高水流量のことを中心に述べてきました。それだけが原因と
は申しませんが、この基本高水流量に関しては、市民の皆様の理解
が深まり、田中知事ですら浅川の基本高水流量は450立方メート
ルを当面の目標にすると言わざるをえなくなりました。要は既往最
大の330立方メートル、あるいは350立方メートルで良いとお
っしゃる方々の理論が、いかにご都合主義のまやかし議論であった
かということが明らかになったわけで、その意味では答申も無視さ
れ、この基本高水の論議は終ったと思います。知事は「当面の目標」
とおっしゃって問題の先送りをして延命を図り、将来の変更に含み
を持たせていますが、相当合理的な理由がない限りそれは無駄な努
力でしょう。
ただ、もう一つの論点、すなわちダムが安全なものかという議論
は、私が敢えて発言を避けたこともあって若干消化不足でもあり、
市民の皆さんに分かりにくかったかなと反省しています。私は検討
委員会の浅川部会の始まった際、「安全論議はプロの世界、素人が
議論しても感情論になるだけ」と考え、ダムの安全性を議論した
「浅川ダム地すべり等技術検討委員会」における日本的権威10人
の学者さんがまとめた結論以上のものはないと考え、あえて議論し
ませんでした。私は地質とか断層という話に全く素養はありません
ので、その考えに今も変わりはありませんが、ただそのことの説明
責任については若干問題があった。私は説明責任をいうときは説得
責任も伴うと思っています。もう少し市民のみなさんに分かってい
ただける話をすべきだったと思います。
そこで、今後はダムについて様々な角度から検証を行い、重力式
ダムと穴あきダムの特性、ビオトープなど新しい水辺の文化、鉄砲
水を防ぐ最良の手段としてのダム、ダム100年の歴史における土
質と工法・同一土質・断層上の例、緑のダムへの日本学術会議の答
申と沿川における遊水地は可能性、治水は上流と下流のコミュニケ
ーション、などのテーマについて、何回かにわたり配信してみたい
と思います。若干不定期になるかも知れませんが、市民の皆さんに
ご理解いただけるよう、素人の私が理解した部分を書いてみたいと
考えています。
2002年6月27日木曜日
長野センタービル(旧ダイエービル)取得問題(その1)
長野センタービル(旧ダイエービル)取得問題は、私が市長に就
任する前からの懸案です。今回は、なぜあのビルを長野市が取得す
ることを提案したか、その経緯について聞いてください。
平成12年7月、長野そごうが自己破産、続いてダイエー長野店
の撤退発表がありました。長野オリンピックから2年、二十世紀最
後の年、景気がどんどん落ち込んでいる中で、長野の中心市街地か
ら灯りが消えてしまう。私は長野市民として暗澹たる気分になって
しまったことは事実です。「そごう」のように自己破産の場合は、
裁判所の管轄下に入ってしまいますので、処理は法的に粛々とやる
以外に仕方ないのですが、ダイエーの場合は一応契約期間満了での
撤退ですから、地元のビル保有会社にとってはテナントがいなくな
り、収入がなくなるわけで、後をどうするか大変に困った状況にな
ってしまったわけです。ビルの所有者である(株)長野センタービ
ル(以下、NCBとします)は、あらゆる手を使って新しいテナント
の獲得に努力しましたが、この不況では借り手は現れず、平成12
年12月末ダイエー長野店閉店、そして平成13年3月末にダイエ
ーとNCBの間の賃借契約が終了したことに伴い撤退ということに
なったわけです。NCBとすれば、期限到来後も賃貸契約は継続し
てもらえると考えていたのでしょうが、結果的に甘かったというこ
とです。
それから約一年が経過しました。その間、NCBはテナント探し
を継続する一方で、今後どうするか懸命に努力してきました。しか
し、問題を難しくしていたのは、単にテナントがないだけではなく、
NCBがダイエー本社から建設協力金として預かっていた資金、結
果としてはダイエーからの14億円の借金が残ってしまったという
ことが、あったようです(なぜ、契約満了後に借金が残っていたか
については、ビルの建設当時の第一次オイルショックにより建設費
が暴騰し、やむを得ずダイエーに追加資金を要請したため、その
分が残ったということです。不運であったということです)。その
他にも、ダイエーへの担保にはあのビル及び土地が差し入れてあり
ましたし、固定資産税や維持管理費だけでも相当な費用がかかるこ
とも解決を難しくしていた理由のようです。
ダイエーも頑張ったのだろうとは思いますが、マスコミにも出て
いる通りリストラを断行し、生き残りをかけている状況ですので、
経済原理のもとでは仕方ない。ただ、本音を言えば貸し金は回収し
たいがそれは無理であろう。本来は競売にかけて回収することが本
筋なのですが、現在の経済情勢ではあのビルを取得する相手を見つ
けるには長い時間が必要となってくる。そのため、ダイエーとして
は長野市が街の活性化のために公共的にあのビルを利用するのなら、
債権を積極的に放棄しても構わないという方針を示してきました。
そして、ビルのオーナーのNCBの立場ですが、社長以下、役員
や株主の皆さんは、30年前に長野の代表的な場所を所有する者の
立場として、長野市初の再開発ビルの建設に取り組み頑張ってきた。
スタートに当たって問題点を全て片付けなかったマイナス面はある
ものの、第一次オイルショックの危機を何とか乗り切り、ダイエー
を誘致し、長野の中心市街地の顔として頑張ってきた。結果、
時に利あらず、ダイエーの撤退という事態に遭遇し、努力してもビル
の再建は困難と判断した以上、会社の倒産あるいは清算は覚悟して
いる。自分たちの個人財産は全て投げ出すこともやむを得ない。しかし、
あのビルにはダイエー以外の地元テナントも入っていて、その方たち
の生活もかかっている。何とかビルそのものは存在して、長野の顔
として誰かが維持して欲しい。そんな心境を当時お聞きしました。
私は長野商工会議所副会頭時代に、この問題をどうすれば一番良
いのか、ダイエー、NCB、地元商店街、そして長野市の間に入っ
て最良の解決方法を模索してきました。また、長野市とすれば企業
の契約行為の失敗を救うことは出来ない、しかし中心市街地から灯
りが消えて、いつまでも空きビルが残ってしまう事態は避けたいと
いう思いはありました。
来週は、空きビルとなった長野センタービルをどのような経緯で
長野市が取得し、今後どのような活用策を図っていく予定なのかに
ついて書きたいと思います。
2002年6月20日木曜日
故斎藤英四郎さんのお別れの会に出席して
斎藤英四郎さんについては、良くご存知の方もいらっしゃると思
います。新日鉄社長・会長、そして財界総理ともいわれる経団連会
長として、その足跡は大変な方です。特に我々にとっては、あの長
野オリンピック冬季競技大会組織委員会(NAOC)の会長として
ご活躍され、長野オリンピックを大成功に導いた立役者としての記
憶がまだ残っていると思います。その斎藤さんが去る4月22日、
90歳の天寿を全うされ永眠されました。数年前に奥様に先立たれ
たということで、その頃からお寂しくなっていらっしゃったという話を
聞いておりました。告別式では、長野市民を代表して心から感謝と
哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りしてまいりました。
個人的には斎藤さんとの接点はそれほどあるわけではありません。
しかし、斎藤さんがNAOCで会長を務め、私はその下部組織の実
行委員会の委員でしたので、何度かお会いする機会がありましたし、
一度だけですがお話する機会もありました。その機会というのは、
オリンピックの表彰式会場にセントラルスクゥエアを使って欲しい
ということを長野都市経営研究所(NUPRI)が提言していた頃、
突然、斎藤さんが視察に来られるという連絡が入り、急きょ現地
でお会いしました。斎藤さんは秘書と思われる方とお二人で車に乗っ
て現れ、数分でしたが会場を見学し、私が「ここで表彰式をやれば
絶対に盛り上がると思いますし、街のためにもなります。」と申し
上げると、「こんな素晴らしい場所を提供いただけるのは、ありが
たいことです。」と一言おっしゃり車に乗り込まれたことを今も覚
えています。
当時、セントラルスクゥエアでは表彰式会場には狭いとか、お
金がかかるとかいろいろ言われており、もしや違う場所でやるとい
う話になったらどうしようかと思っていた時期でした(私たちは、この
広場を無償でお貸しすると申し上げていましたが、通信回線や会場
装飾などにお金がかかるのは事実だったでしょう)。本当に嬉しか
った。私たちが無理をしてあの広場を作った行為がようやく報われ
る、正直そう思ったことは事実です。
斎藤さんとのご縁にお許しをいただいて、オリンピックの表彰式
会場になったセントラルスクゥエアについて話させていただきま
す。あの土地はオリンピック前、第一生命・鈴木土地・昭和建物
さんの所有地で、ホテルを作る予定だったことは皆さんご承知のと
おりです。しかし、バブル崩壊に伴いその計画は水泡に帰してしま
い、一等地であるあの場所が工事用の塀囲いのまま何年も放置され
ていました。
ある日、地主でありホテル建設の関係者でもある方から「俺はあ
そこにあった自分の家を移して、都市型ホテルをつくることに全力
をあげたが失敗した、二度と失敗を繰り返したくない、お前に活用
方法はまかすからなんとかしろ。」と言われ、また、NUPRIの
仲間は「オリンピックを今のままで迎えるのは何としてもまずい、
なんとかならないか」ということで、様々な活用方法を研究しまし
た。そして考えたのがオリンピックの表彰式会場でした。
新聞でサマランチIOC会長の「表彰式はなるべく多くの人が集
まる場所でやるべきだ」という発言を知り、ここが一番良いと判断
し、長野市に土地購入を提案しました。当時、長野市でもいろいろ
検討をしていたようですが、結論として有効活用は困難ということ
でした。しかし、私たちはあきらめきれませんでした。オリンピッ
ク施設は全て郊外にある、このままでは街の中でオリンピックの火
が燃え上がらない、なんとしても何かオリンピック施設を街の真中
に欲しい。それが将来の中心市街地活性化のきっかけになると私た
ちは信じ、長野市が買収しないなら、我々でなんとかしようではな
いかということで衆議一決、みんなで資本を出し合って新会社を作
り、第一生命さんの土地は借金をして不動産鑑定の価格で買収、鈴
木土地・昭和建物さんの土地は借りて、あのセントラルスクゥエア
を作ったのです。
会社の最初の取締役会での決議は、役員は全て無報酬であり配当
は期待しないということでした。要するに、私たちは儲け仕事です
るのではない、街のために、企業の武士道を発揮しようではないか
という気持ちでした。もちろん当時は、現在ほど景気が落ち込んで
はいなく、オリンピックを前にして皆の気持ちが高揚していた時期
だから可能だったということは事実でしょう。
結果はオリンピック時の中央通りの盛り上がりは想像以上であり、
すっかり有名な場所になりました。街のにぎわいも皆さんご記憶の
とおり、長野にあんなに人がいたのだろうかというほどでした。
オリンピックが終ってからの会社経営は、苦しいものがありまし
た。表彰式の舞台は、市民の皆さんからぜひ残してほしいとの声が
多かったので、手直しをして長野市に寄附しました(底地は無償の
使用貸借契約)。また、施設の維持管理費を捻出するため、舞台裏
の土地は原則有料駐車場、前面の広場は土・日・祭日は市民開放し
ていますが平日は有料駐車場として活用したり、ピンバッジ販売や
イベントの開催、さらに看板広告を設置したりと会社としてはいろ
いろな工夫をして赤字を出さないように頑張っているのですが、や
はり最大の誤算はバブル崩壊がここまで深刻であることを予測でき
なかったことで、土地価格が値下がりした分だけ含み赤字になって
しまいました。まぁ長野市との契約は平成15年3月までというこ
とになっていますので、そろそろどうするかを考えなければならな
い時期になっています。
今後もあの場所が、地元や街づくりを推進する組織(TMO)と
も相談しながら、街の活性化のために役立てば良いなあ、と思って
います。
故 斎藤英四郎さんのことを書き始めましたが、故人のことを思
い出す中でもっとも印象深く、長野市における大いなる資産となっ
たご功績を皆様に知っていただきたいと思っているうちに、思わぬ
方向に話がいってしまったことをお許しください。
2002年6月13日木曜日
レッツ トレッキング!!
トレッキングをご存知ですか。山や川辺、あるいは湖周辺や野原
でも良いと思いますが、ハイキング、あるいは登頂を目的とせずに
山を歩く。特にこうしなければいけないという義務を持たずに野山
を歩いて楽しむ、こんな感じでしょうか。海外では広大な土地を何
日間もテントを担いで歩くロングトレールという本格的なものもあ
るそうです。
私は、自分の選挙運動やその後の行政懇談会などで市内各地を巡
らせていただき、山、川、景色の素晴らしさ、自然の美しさ、空気
のうまさなどに触れ、本当に長野が誇れるものはこれではないか!
と改めて感じました。もちろん長野の魅力といえば、善光寺や松代
などの歴史的、文化的な価値、さらにはオリンピック施設を中心と
した近代的な施設など、いろいろあるのですが、これらと組み合わ
せたあの自然の美しさは素晴らしい資産であり、これを利用しない
手はないと考えました。
考えてみれば私の子どもの頃、すなわち昭和20年代の頃の遠足
といえば、この善光寺平周辺の山々でした。葛山、頼朝山、神代桜、
飯綱、富士の塔、旭山、ブランド薬師など、どれも懐かしい時代の
懐かしい名前ではありませんか。私の記憶は生まれた場所の関係で
どうしても北に偏りますが、長野市の周辺は素晴らしい自然の宝庫
なんです。バスで行く遠足より、自分の足で汗を流し、歩く早さで
景色を眺めながら近くの山を登ってみましょう。小田切や七ニ会か
ら見る北アルプスの山並み、長野市の街区を見下ろす気分は本当に
素晴らしいです。そして、そこにはあまり知られてはいないけれど、
その地域独特の歴史、文化が埋もれています。歩きながらそれらを
訪ねるのも素晴らしいではありませんか。
中山間地の活性化が求められております。農業や林業の再生によ
る地域の活性化はもちろん大切ですが、トレッキングコースを作っ
て都市部の人と交流し、その地域のことを知っていただくことも一
つの策ではないでしょうか。自然保護団体の意見でも「トレッキン
グコースは開発ではない。それより折角コースを作っても、放って
おけば一年で山にもどってしまう、メンテナンスが大変でしょう」
という見解でした。長野の自然が復元力に恵まれた素晴らしい場所
だという証しなのでしょう。
時代のムードが変わって、大型バスの観光旅行は減少気味で、親
しい人同士あるいは家族で旅行を楽しむ人が増えています。折から
の健康ブームもありトレッキングには絶好の機会になってきている
と私は考えるのです。最近の小・中学校の遠足はバスに乗って出か
けることが多いと聞いています。山々を歩くことは、子供達にとっ
ても身の回りの自然を見つめ直すことにも役立つような気がします。
二年前、私は飯山の関田山脈で「信越エキゾチック・トレッキン
グ委員会(小山邦武飯山市長が委員長)」を作って、コース設定の
お手伝いをしてきました。このコースは、日本有数のブナ林をもつ
素晴らしい場所で、今も少しずつトレッキングの輪が広がっており、
冬でも楽しめるようです。その前例を参考にしながら連携をとり、
長野では善光寺平周辺トレッキングとか、長野広域連合を視野に千
曲川右岸、左岸コースとか、いろいろ考えられるのではないでしょ
うか。
もちろん難しい問題はあるでしょうが、ぜひ挑戦してみたいテー
マです。地元の皆さんと良く相談する中で、上級・中級・初級と難
易度によって三つぐらいのコース設定をし、市民みんなで参加して
みると楽しいでしょう。
先日、七ニ会の陣場平へ行ってきました。あそこには青少年山の家
(宿泊施設)やグラウンドもあるのですが、今は利用者がほとんどな
くて、「取り壊そう、いや壊すな」と議論があるところです。私は約
2時間ぐらいかけて山の中を歩きましたが、素晴らしいところです。
地元の歴史もいろいろな言い伝えが残っているようで、調べてみると
面白そうです。「この陣場平もトレッキングコースの一つになるかな」
と、楽しく心地よい汗をかいて、帰りにおやきをご馳走になり帰って
きました。
2002年6月10日月曜日
長野県治水・利水ダム等検討委員会の答申について
去る6月7日に長野県治水・利水ダム等検討委員会の最終委員会
が開催され、宮地委員長から田中県知事に対し答申が為されました。
すなわち、「これまでの委員会審議の概要及びこれについて委員か
ら寄せられた意見を総合して、その多数を優先し、委員会は浅川の
総合的治水・利水対策として、B案すなわちダムによらない河川改
修単独案及びそれに対応する利水案を答申する。なお、A案を支持
する意見もかなりあったことを付記する」というものです。
長野市長である私は、この委員会の下部組織である浅川部会の委
員として約5ヶ月、議論に参加させていただきましたが、この答申
については極めて遺憾であり、市民の生命と財産を守る地元行政責
任者の一人として、言いようもない怒りを感じるものであります。
以下、理由を広く皆様に知っていただきたい、委員会の内情を知っ
ていただきたいと思い、敢えてメルマガ号外を配信させていただき
ます。
一点目としまして、まずこの文中にある「多数を優先し」という
部分です。委員会の構成メンバーは、最初からダム反対論者が多い
と分かっていたことではあります。従って少なくとも委員長は、多
数決の議論はとらないはずであると信じていました。これについて
は見事に予想に反してしまったと申し上げる以外に言葉がありませ
ん。私は大学教授という方はもう少し民主主義の原点を知っていら
っしゃる方と思っていました。田中知事が「脱ダム宣言」を発し、
県議会が反発してこの委員会の設置を決め発足したとき、私はある
県議会議員さんに「なぜこの委員構成なのですか?」と質問しまし
た。議員さんいわく、「委員会の設置は議会で提案できるが、残念
ながら委員の任命は知事の専決事項なんだ」とのことでした。私が
地方自治法の規定を知らなかった故の疑問でしたが、しかしこうい
う答申が出てくる、しかも結果として多数決で決したとおっしゃる
わけですから、ダム推進派の県議会議員さん方のご努力には敬意を
表しますが(すなわち委員会を設置すれば公平に委員は選ばれ、民
主的な議論が行われるという考え)、その委員会が設置された時点
から否定されたと考えざるを得ないということでしょう。もし私が
委員長の立場であり、B案をとるなら、A案の問題点を納得のいく
ように全て指摘した上で学問的良心にかけてB案だと言う。公平中
立な立場を求められる委員長としてそれが言えないなら、両論併記
しかないと私は思います。
二点目として、部会の討議を通して言えることですが、部会の委
員は自分の意見を述べ合っているだけで、相手の意見を聞いて自分
の意見を変更するということは、まずありませんでした。19名の
内、公募委員のお一人だけが、部会での審議を通じ賛成派の意見に
近づいていただけたかな、という感じはありましたが、学者的な方
々やダム反対に凝り固まっている方々の意見は終始一貫同じでした
(推進派の私達もその意味では同様です)。要するに「これは何か
を話し合って決める委員会ではなく、討論会、意見の述べ合いの会」
と申し上げて間違いないでしょう。この種の委員会の本来の姿は、
もっと公平で権威のある専門家の方々で構成され、そこで今回の委
員の意見等を十分聴取されて、判断を下すというのが民主的な手法
ではないでしょうか。アメリカの裁判が陪審員制をとっている意味
が良くわかりました。
ダム反対派の意見は、ある一つの組織の意見で統一されていまし
た。実に良く勉強されていましたし、公聴会での口述人を含めてお
っしゃることは全て同じ出所の意見と私には聞こえ、良く理論武装
されて喋っておられました。それに比べ、ダム推進派の意見は多種
多様で、それほど理論だっているわけではなく、長年水害に悩まさ
れてきた方々の生活実感のこもった意見が多かった。ですから、い
わゆる学者さんに対抗して議論するにはどうしても気後れがして言
いたいことの半分も言えない、そんな方々が多かったと私は思いま
した。私は行政代表の立場として、そんな方々の代弁をきちんとし
なくてはならないと考え、長野市の河川課の職員と連日頑張ってき
ましたが、本来の目的を果たすことができないこの委員会では、理
屈の通らない世界が数により支配されており、誠に残念ながら力不
足でした。
既に過去二回のメールマガジンで、私のダム推進の立場は十分述
べさせていただきましたし、その意見は委員会の答申が出た現在で
も全く変わっておりません。従って今回はダムそのものについての
意見は避けさせていただき、委員会の実態について述べさせていた
だきました。(この意見はもっと早く申し上げ、市民の皆さんに知
っていただきたかったのですが、もしかすれば答申内容が、市民の
生命と財産を守る立場にたったものになるかもしれない、という淡
い期待をもっていましたので、答申がでるまで出せませんでした。
お許し下さい)。
最後に、住民の生命と財産を守ることは、行政にとってもっとも
基本的な責務であり、最も尊重すべきことであります。この答申を
受けて知事がどのような判断を下すのかは分かりませんが、行政の
責任者として子々孫々にわたり地域住民を守り続けるという、責任
ある判断を下すことを期待しております。
2002年6月6日木曜日
ペイオフについて
この4月1日から始まったペイオフという言葉を知っていらっしゃい
ますか?要は銀行等の金融機関にある預金は、一預金者が一金
融機関につき1,000万円までしか国は保証しないという制度です。
実際は国の保証ではなく、預金保険機構の保証のようですが、これ
は大変なことです。今まで銀行が潰れるなんてあまり実感をもって
考えていなかったでしょうし、まあ潰れたって銀行の預金は国が保
証しているのだから、どこへ預けておいても同じと、大方の人は考
えていたと思うのです。
しかし、グローバルスタンダードの時代を迎え、金融機関のみな
らず、全ての企業が世界を相手に競争していかなければならない。
そんな時代に全ての預金を国が保証しているのでは、金融機関が
それに甘えてしまい、自らの経営努力をしていかない。国が保証を
やめれば、銀行が倒産したとき、預金も無くなってしまうわけですか
ら、預金者はそういう危ない金融機関には預けない、あるいは預金
を下ろしてしまう。すなわちその結果として不健全な金融機関が自
然に淘汰されるということなのです。お金持ちにとっては厳しい時
代、金融機関の安全性を自分の責任で判断しなくてはならない、そ
ういうことなのです。
ただ当面保証されないのは、定期性の預金だけで、普通預金や
当座預金は1年間は全額保証してくれるということなので、この4月
から定期を解約して普通預金に切り替える人が続出しているよう
です。
預金保険機構への保険料率の改定などから、銀行も困って普通
預金の金利を極限まで下げてしまいました(そのうち、預かり賃を
いただくことになるかも知れません)。まぁ定期の金利も大変低い
ですから、下げてもあまり影響はないのかもしれませんが。
個人の預金は、おのおのの責任で判断するとして、長野市の預金
はどうしたらよいか、これは大問題です。市民の皆様からお預かり
している大切な公金ですから、ハイリスク、ハイリターンは現段階
では求めにくい。すなわち、危険がたとえ僅かでもあってはいけな
いと考えています。
長野市は借金があるのだから借金と預金の両建てにしていければ
心配はない、いざとなったら相殺すればよいと私は当初考えていま
した。しかし甘かった!借金は銀行だけでなく、一番大きいのは国
から借りているのです。
それと例えば中小企業に制度資金を貸すためにいろいろな銀行に
長野市が預金をして、金融機関はそれを元に何倍かの資金を企業に
貸している制度ですが、結構いろいろな金融機関に預託しているの
です。その金融機関からは借金がなく預金だけでした。(長野市は
相殺が可能となるよう、新たに借入れを行いました。)
その他、実質的に長野市が全責任を持っている組織でありながら、
法的な代表者は市長ではない、そんな外郭団体が長野市にも結構
あり、それらの預金も相殺は出来ない。さらに、市民の皆さんの税
金なども、いろいろな銀行などを通して長野市に入ってくるので悩
んでいます。
幸い、普通預金が一年間はペイオフ対象ではないので、一応は普
通預金で対応することで、当面は問題ないのですが、来年以降の解
決にはなりません。公的預金はペイオフ対象からはずすべき、とい
うことが国会で議論された時期もありますが、どうも立ち消えになっ
てしまったみたいです。しかし、国の預金は最終的には日本銀行に
預けられ、その分については全額保証されるわけですから、地方公
共団体の公的預金についてもある程度の保護をしていただきたい。
現段階では、長野県内の金融機関は大変健全であるといわれて
おり、心配しなくても良いとはいわれておりますが、でも昨年の上田
商工信組破綻の例もあります。あの時は、幸いまだペイオフ解禁に
なっていなかったので、長野市だけでなくすべての預金は保護され
ましたので、事なきを得ましたが、今後絶対にないとは言えないの
が実態でしょう。行政も自己責任を問われる時代であることは承知
しています。
将来的には利回り等を考えて、有利な資金運用をすべき状況も生
まれてくる、しかし、現段階では行政にそのノウハウがないし、ある
金融機関が危ないからといって預金の引き下ろしをやったらどうな
るでしょうか?地元金融機関倒産の引き金を引くことにもなりかね
ないので、慎重な対応が必要でしょう。
長野市では、今後も健全な行財政運営を推進するため、全国の市
により構成されている全国市長会等を通じ、地方自治体における公
金の保護を国に要請するとともに、公金の運用及び安全性の確保に
おいて最大限の努力をしてまいります。
2002年5月30日木曜日
「入りを量りて出ずるを為す」
昨年10月の選挙で幸いにして当選させていただき、11月11日
から市長の任期が始まりました。それから半年、浅川ダム問題や
長野センタービル(旧ダイエー長野店)などの大型プロジェクトを
研究する中で、市長の仕事はあちこちに関連があって難しいものだ
と実感しています。ただ、市長になるまでの私は、長野市のことを
ある程度知っているという自負があったのですが、実際に市長とし
てその中に入り、いろいろな側面から考えて最終責任者としての判
断を下す立場になったとき、今まで私が理解していた生半可な知識
は役に立たないということを痛感させられているというのが実感で
す。
私は市長就任以来、一貫して常用してきた財政運営上の言葉があ
ります。それは、「入りを量(はか)りて出(い)ずるを為す」と
いうものです。この言葉は、収入をきちんと推計して、支出はその
範囲でやりましょう、という意味で使っています。
行政は、多様な市民要望を実現するために、一般的に借金体質に
なっています。すなわち、収入よりたくさんの支出をしている。その
極めつけは国家財政ですが、地方自治体も例にもれず借金が多い。
長野市もオリンピックという大イベントをやったわけで、施設費等
を公共事業で行っていますので、どうしても借金は大きい。しかし、
その割には長野市の財政は悪くなってはいないというのが、市長に
就任以来、内容を精査して分かってきました。でも借金の絶対額は
かなりの金額で、一般会計規模の1.5倍ぐらいの借金がある。こ
れを何としても減らさなければならないというのが実感でした。
そこで初めての予算編成にあたっても、まず収入をよく見て固く
見積もり、そして借金も返済するときには国が交付税で面倒をみて
くれる、いわゆる良質の市債を発行して収入を確保することに努め
ましたし、支出も無駄を省くように最大限の努力をしたつもりです。
でも残念ながら、14年度の長野市の独自財源(市税)は、13年度
に比べ約19億円減少し、最盛期に比べ約63億円減ってしまって
いますので、大変厳しい予算組みになってしまいました。
63億円といえば、今話題になっている小学校を一つ造っても50
億円ぐらいですから、これはかなり大きな金額です。ですから、現
段階はつらくても我慢し、力を貯める時期、すなわち借金を減らす
時期と考えています。「中心市街地に1,000億円ぐらい投下し
て街をつくりかえてしまうぐらいの構想を打ち出すべき」という方
もいらっしゃるのですが、ちょっとその度胸はありませんし、今は
その時期ではないでしょう。
現段階は力を貯める、行政は民間活力が発揮しやすい環境を整え
て、民間と行政のパートナーシップで頑張るのが最良の判断と思っ
ています。
していこうということですが、同じような言葉で、「入りを図りて
出ずるを制す」という言葉もあるようです。これは企業経営の要点
でして、企業が儲けるためには、これしかないのです。この「図る」
ということは「企(くわだ)てる」と同じような意味で、いろいろ
投資をして収入を増やしていこうという前向きの発想が入っている
と私は思います。長野市の財政もいつの時点か、「入りを量りて」
から「入りを図りて」に転換したい、と私は考えています。
2002年5月23日木曜日
浅川ダムの話し その2
先週に続き浅川ダムについてですが、もう一つの対立点である
「ダムが必要か、不必要か」ということについて、考えてみまし
ょう。
まず初めに、浅川ダムが必要となるまでの簡単な経緯であります
が、度重なる浅川の氾濫を抑えるため、昭和40年代に県が提案し
たのは河川改修案でした。しかし、河川改修による治水は川幅が最
大81メートルにも及ぶもので、当時の優良農地がかなり広く潰れ、
また家屋移転を伴うというものでありました。その後、高度経済成
長時代を迎え、流域における住宅整備などが急速に広がりました。
そのため、昭和50年代に入り、現存する施設を最大限保全したま
ま治水対策を進めるために、ダムと河川改修を合わせた事業が必要
となってきたものであり、浅川ダムの整備は、長い時間と研究の中で
事業化が進められてきたものです。特に、一旦災害が起こると深刻
な被害をもたらす外水対策は、内水対策よりも先んじて進める必要
があるものです。また、すでに建設されている橋、橋脚、堤防など
は、ダム建設により安全性が保てるということを前提に整備された
ものであり、仮にダム以外の方法で治水対策を進めるとすれば、
河川改修のみならず、既存のまちづくり全体を見直すことが必要と
なり、このためには、(治水対策以外の部分においても)莫大な費用
と時間が必要となるものです。
さて、今回のテーマである「ダムが必要か、不必要か」の問題に
戻りますが、この議論も正直に申し上げて素人には分かりにくい議
論です。しかし、長野県治水・利水ダム等検討委員会の浅川部会の
議論を通じて学んだことや長野市の河川課との討論、そして部会メ
ンバー以外の識者の意見を総合すると、治水計画を立てるためには
「基本高水(たかみず)流量」という数字をまず決めることが基本
なのです。
基本高水流量というのは、過去の降雨量からみて、何十年から何
百年に一度の大雨が降ったとして、どのくらいの水が流れる可能性
があるかを推定した数字でして、今回の場合、浅川の基本高水流量
をどのくらいにするべきかを過去の降雨量の記録から計算式を使っ
て決め、その流量によって治水計画を考える。その流量が低い数字
になれば、ダムがなくても河川改修などの施策で雨水をのみ込める
から大丈夫となるし、逆に、高い数字になるとより多くの河川改修
などが必要となるため、優良農地を多く潰して川幅を広くしたり、
住宅移転をしなくてはならないなどの問題が生じるため、ダムを造
って上流に一時的に雨水を貯め、徐々に流していこうということに
なる。いわばダムが必要か不必要かを決める基本の数字なのです。
県が浅川ダムを計画した段階で、基本高水流量を毎秒450立方
メートルとしました。この計算方式は専門的でかなり難しいのです
が、過去の降雨量の記録データから計算式に基づいて求めた数値で
あり、日本中で通常行われている計算方法です。このため、実際に
発生した数値(流量)ではなく、ある程度の安全率を見た計算値で
すが、特に浅川だけが過大に見積もってあるということではありま
せん(このことは、ダムに反対する立場の方々も認めていることで
して、普通のやり方とのことです)。そして、それは確率的には
100年に一度の大雨が降っても耐えられる数値だそうです。
ダムに反対している方々は、この数字が過大であるから、もっと
小さくて良い。「既往最大程度」の数値が毎秒330立方メートル
なのだから、それで良いとおっしゃっているのです。どういうわけ
か分かりませんが、この数字はいろいろ変化しておりまして、毎秒
350立方メートルになったり、そのうちにまた毎秒330立方メ
ートルになったり・・・。まぁそれは数字とすればわずかな差です
から、問題にはならないのかも知れませんが、あまり説得力がない
ように聞こえます。
私がここでどうしても納得できないのは、「既往最大程度」とい
う考え方です。言葉の意味で考えれば、過去にあった最大流量とい
うことですから、過去にその数字があったという事実を述べている
だけで、将来の安全に対する余裕は「0」ということではないでし
ょうか?そして、それを上回る量の雨が降らないという保証はあり
えないのですから、今後、我々は常に洪水の恐怖と戦っていかなく
てはならないということになります。自然が相手の話ですから、過去
にあった事例に対して、安全率を見込んで考えるのが当然ではな
いでしょうか?
我々は、更に重大な事実を見つけました。5月1日の記者会見で
発表させていただきましたが、昭和12年7月に実際に降った雨を
計算したところ、毎秒415立方メートルという流量になるという
ことが分かったのです。これは大変です。「既往最大程度」で良い
と主張し、それは毎秒330立方メートルだとおっしゃっている
方々の理屈を根本からひっくり返す話だと私は思います。県がダム
建設に当たって検討した数値は、近年の洪水として概ね戦後以降の
実被害のあったものを選定したようですが、このような実際にあっ
た降雨を考慮する必要があることはいうまでもありません。
以上、「既往最大程度」ということで良いのだとおっしゃる方々
の理論は、まず初めに「ダムなし案ありき」であり、看過できない
矛盾点があり納得できません。「既往最大程度」で良いと主張する
方々のこういった理論のために、長野市民の生命と財産を危険な目
にあわせたくない。そして、その方々の主張を仮に認めたとしても
それを上回る降雨量の記録が見つかったことなどから、代替案に
おける毎秒330立方メートルとした流量は、過少と言わざるを得ま
せん。ただし、お断りしておきますが、我々はこの毎秒415立方
メートルという流量を基に、現ダム計画を上回るダムが必要と申し
上げているわけではありません。「既往最大程度」で良いとおっし
ゃる方々にこの数字を理解してください、と申し上げているのです。
現に県の計画した毎秒450立方メートルは、毎秒415立方メー
トルを上回っているわけですから、当時ダムがあれば災害になった
可能性は低いと考えられます。
最後に先日の検討委員会で、国土交通省の見解として、「基本高
水流量の切り下げは、安全度の切り下げである」ということが報告
されました。これは私達の主旨と同じ事と思います。市民の生命と
財産を守る立場の行政としては、安全度の切り下げは決して認めら
れるものではありませんし、絶対に許せない問題です。
県政がすごく身近になったという声が聞こえます。私もそのとお
りだと思いますし、そのことは地方の時代にとって大切なことです。
ただし、浅川ダムというような住民の生命と財産に直接つながるテ
ーマにおいては、個人としての理念や一部ダム不必要論者の意見だ
けで、先人の長い間の努力を無にするような政策はいかがなもので
しょうか。
もっと自分の組織と一緒に考えてもらいたい。組織の人を信じて
欲しい。そして何よりも、安全な生活を願う人々の声を聞いてほし
い。
私は、市民の生命と財産を守るため、長野市の河川課の職員や
流域住民のみなさんの意見を聞き、そして相談しながら、浅川ダム
は必要という立場で行動していこうと考えています。
2002年5月16日木曜日
浅川ダムの話し(部会での議論)その1
昨年の田中長野県知事の「脱ダム宣言」以来、もう一年以上経過
してしまいました。永年荒れる浅川をどうやって治めるか、腐心さ
れてきた流域の皆さんとすれば、ダム着工でようやく一つの区切り
がつくと喜んでいたのに、突然の宣言で工事が一時中止ということ
になり、困惑と大きな失望を味わっておられる状況でしょう。長野
市長としても市民の生命と財産を守るということは、行政の最大の
テーマですから、代案も提示せずに(もしダムなし案で安全性を保
証出来るなら勿論受け入れるつもりですが)一時中止というのは、
誠に無責任な話と考えており、行政の空白を生んでいるわけで、も
し今大雨が降って被害が出たら、自然災害ではなくてこれは人災だ
と申し上げ、速やかな工事再開を主張しているわけです。
脱ダム宣言後、県議会の決議で設置された長野県治水・利水ダム
等検討委員会、そしてその委員会のもとで浅川部会が置かれ、長野
市長もその部会委員として論議に参加しましたので、少し長くなり
ますが、二週にわたってその話をさせてください。
部会の議論の争点は、主として「1.ダムは安全か、危険か?」
「2.ダムは必要か、不必要か?」という問題です。もちろん他に
も、「浅川と千曲川の合流点問題」、「緑のダムによる治水対策」
とか、「浅川にそそぐ小河川の内水問題」、「都市化問題」などい
ろいろありましたが、大きな対立点があって、意見が一致しなかっ
たのは、1.2.の問題でした。
まず安全性の問題については、当たり前のことですが、もしダム
が崩れるという危険があるとすれば、長野市とすればダム建設は絶
対に反対です。ただこの議論は、地質とか断層とか第四紀層とか、
素人にとって分かりにくい話で、本来その道の専門家、権威者の意
見・議論で決めるべきことでしょう。我々には分からない議論をす
ることはかえって感情をむき出しにするばかりで、何の益もないと
考えました。ダムの計画段階で日本において権威として認められて
いる専門家10人が集まって検討し、9人が「ダム建設には支障と
ならない」とした、「浅川ダム地すべり等技術検討委員会」の結論、
また、国も安全性を認めているのですから、これ以上のものはない
と考えました。
日本におけるダムの歴史は約100年ぐらいだと思いますが、地
震等で崩壊したダムは一つもないそうですし、それだけ技術的
には安定したものだそうです。
緑のダムを育てて洪水を防ぐ、素晴らしい響きです。私もその必
要性を否定するものではありません。ただ日本学術会議でも、緑の
ダムの効果はいわゆるダムに代わり得るものではないと結論付けて
いるようですし、まあそうだろうと常識的には私も思います。同じ
ようなことですが、都市化したが故に降雨がすぐ浅川へ流れ込む、
だから洪水になるという議論ですが、これについては長野市も最大
限の努力をすることを約束しています(校庭貯留、排水路改修、調
整池設置、そして今年から個人住宅へも雨を一時的に貯留する施設
を作っていただくための補助事業の実施を予定しています)。ただ、
それらが浅川の計画流量に与える影響は最大で約5%、しかも基本
的に織り込み済みの数値なのです。これらの議論は努力をしていか
なければならないテーマではありますが、決定打にはならないよう
です。
ここで誤解があるといけませんので、一つ申し上げます。ダムが
出来たら、100%洪水は起きないか、という問題です。残念なが
らその可能性は否定できないようです。一点目としては、100年
に一度の雨以上の降雨量があった場合、二点目としては、千曲川の
水位が高くなって千曲川との合流点にある排水機場のポンプを止め
ざるを得ない場合や、排水ポンプの能力を超える雨量があった場合、
即ち浅川の水を千曲川に流せなくなったときです。ただこれはいず
れにしろダムが有っても無くても同じこと、起こり得ることだとい
うことで、部会内の議論が対立したということではなく、国に対し、
千曲川の河床を下げるとか、立ヶ花の狭窄部を拡げるとか、問題の
解決を要請すべきということで一致していたように思います。いず
れにしろ自然を相手の仕事ですから100%安全はないということ
でしょう。
次回はダムが必要か、不必要かについて発信します。
2002年5月9日木曜日
善光寺花回廊・ながの花フェスタ2002
「門前町に花が降る」こんなキャッチフレーズが決してオーバー
でない、素晴らしい花の芸術祭が4月20日から5月6日まで行わ
れました。
長野の長い冬が終わり、まさに春爛漫の季節。今年は桜が少し早
く散ってしまいましたが、今度は街の中が花いっぱいでとても華や
いだ気分になりました。
善光寺の表参道である中央通りは、4月20日・21日の二日間、
「インフィオラータ in NAGANO」ということで、約130mの
長さにわたり道路いっぱいに花の絨毯が敷き詰められました。イタ
リア的で、そして私たちの目には極めて斬新なアイデアであり、デ
ザインでした。この花の絨毯は、田中県知事の肝入りでイタリアか
ら招聘した、アートディレクターのヴァレリオ・フェスティ氏、そして
製作は今岡寛和氏(東京ミレナリオ等をプロデュース)が担当して
下さったのですが、お世辞ぬきに素晴らしいの一言でした。色の違
う花びらを風に飛ばされないように、一枚一枚にのりを使って路面
に張りデザインされたのですが、その作業を中心にやって下さった
のは、城山小学校の子ども達を含むボランティアの皆さんです。
道路ですからあまり長い時間の通行止めは出来ないため、夜も含
めて決められた時間内に作業をしなくてはならない。見た目よりか
なり辛い仕事を皆さん嬉々として取り組んでくれ、その出来映えが
また素晴らしかったようで、フェスティ氏いわく、「この作業メン
バーを飛行機に乗せて、パリかベルリンの街でインフィオラータを
作ってみたい。」と言っておられました。
4月20日のオープニングの時は、凄い人出でした。オリンピッ
ク以来と言うとちょっとオーバーですが、狭い歩道(車道は花があ
って立ち入り禁止)は押し合いへし合いで大変な混雑。私も式典会
場へ行くのにかなり苦労いたしました。
あのアイデアは日本人には多分ない。いや、あっても世界でそれ
を初めて実施するには、自由にそれをやってもらおうと支援する態
勢がなかなか出来にくい。このイベントはイタリアには古くからあ
るもののようですが、フェスティ氏はそれを世界中に通用するよう
に工夫したのでしょう。「これだけ大きく一体的なものは初めてだ。」
とおっしゃっていましたから。
このイベントについて、花が可哀相だという意見が寄せられまし
た。しかし、それは誤解です。あの花びらは、球根を育てるために
摘み取られた花びらを利用し、芸術作品として蘇らせたもので、い
わばリサイクルでしょう。のりを使っているため、お祭りが終わっ
た後は多分焼却するより仕方ないとは思いますが。
今回、私は本物の素晴らしさに出会ったと思います。まったく知
らなかったアイデアを示されました。特に道路の使い方として、人
や車が移動する場所という概念を少し変えてくれた。そんな思いも
あります。びんずる等で道路を開放することは、最近はそれほど珍
しいことではありません。しかし、道路いっぱい花びらで埋め尽く
し、ひとつのキャンバスにしてしまうなんてことは考えてもみませ
んでした。まさにコロンブスの卵でしょうか・・・。
惜しむとすれば、もう少し準備時間があったらもっと素晴らしか
ったかなと思いました。それと、新聞報道にありましたとおり、ボ
ランティアで手伝ってくれた城山小学校の子ども達3人が、目の異
常を訴えたということもありました。このことについては、6年生
の男児は花粉のついた手で目をこすってしまったとのことで、すぐ
に養護の先生が目を洗って、その後眼科医の先生に治療をしていた
だき、回復したようです。5年生の男女2名の子どもさんも目が痒
いと訴えたので、すぐ作業を止めさせ、室外に出したところ回復し
たようで、軽い症状だったようで、ほっとしております。その後の
作業には手袋をさせたり、異常時にはすぐ申し出るように指導した
り、終了後の手洗いを徹底したりしておりまして、事前の指導上の
ミスは反省材料ですが、このことが、あのイベントは危険だからや
るべきでないといった世論にならないように願うばかりです。
長野駅から善光寺までの参道や小路に花回廊が広がり、道路は商
店街やボランティアの方々による手作りの花壇、篝火花壇、和風花
壇、菜の花回廊などが出現し、セントラルスクゥエアや駅前広場も
花で埋まりました。さらに、この時期に合わせコンサートや美術展
もあちこちで開催されました。
素晴らしかった花フェスタが、長野の春の歳時記に成長すること
を願ってやみません。
2002年5月2日木曜日
長野オリンピック記念長野マラソン
月14日(日)に盛大に行われました。出場希望者がどんどん増え
て、今年は約6,100人の申し込みがあったそうです。しかし、
交通規制にかかわっている警察との話し合いや運営面での検討
の結果、5,700人が限界ということで、残念ながら申し込んだ
のに走れなかった方も出てしまったようです。今年、走れなかった
方につきましては、来年はお早めにお申し込み下さい。
このマラソンの人気が全国的にどんどん上がっているようで有り
難いことです。これだけ出場者が多くなると、スタートで一番後ろ
の方がスタートラインを通過するのは5分後ぐらいだそうです。
ここまで盛り上がってきた背景には、NHKが生中継しているこ
と、オリンピック記念という冠をつけることをIOCが認めたこと、
「信毎マラソン」の伝統を引き継いでいること、JOCや日本陸連
が応援してくれていること、大手コンビニエンスストアやアパレル
メーカー、その他多くのスポンサーが協賛してくれていること、オ
リンピック発祥の地そして次のオリンピック開催地のギリシャ・ア
テネの「アテネ国際平和マラソン」と姉妹提携を結んでいること、
そして何よりも多くのボランティアの方々の協力で素晴らしいイベ
ントに育てていただいたおかげです。地元の皆さん、商工会議所や
商工会の皆さんなどが、ゴール付近を中心にいろいろ楽しむ場所を
作って盛り上げていただきました。
メイヤーズ・ウオークという付帯イベントもあって、小・中・高
校生により編成したバトントワラーズやマーチングバンドを先頭に、
私と子ども達が約1kmを一緒に歩きました。外国ではそんなイベン
トがよくあるそうです。また、走った人(市民ランナー)に聞くと、
「苦しいレースの中で沿道が応援者で切れ目なく埋まっていたのが、
とても嬉しかった。」とのことです。
参加者は県内の方が半分弱、ということは海外や県外から走りに
来て下さった方の方が多いということで、今年は47都道府県すべ
てから参加がありました。旅館・ホテルを含め、長野にとっての経
済効果はとても大きいのではないでしょうか。長野の人にもっと走
ってもらいたい、でも、人数制限がある以上、長野を訪れる方々
も歓迎したい、今後そんなジレンマに悩まされることになるのかも
しれません。
一流選手と市民ランナーが一緒に走る『フルマラソン』というのは、
日本では大変珍しいそうです(海外にはたくさんあるそうですが)。
参加者が多いことで有名な東京の「青梅マラソン」は30kmマラ
ソンだそうですので、いろんな意味で長野マラソンは、将来性を見
込めるイベントと言われています。みんなで大切に育てて、信濃路
の春の風物詩として定着し、超一流のレースと言われるようなマラ
ソンに育って欲しいものです。
長野オリンピックのおかげでしょうか、長野では国際的なイベン
トが増えています。3月にはフィギュアの世界選手権がエムウェー
ブで開催され、皇太子同妃両殿下をお迎えすることができました。
世界選手権とまではいきませんが、ワールドカップ級のイベントは
毎年のように開催されます。来シーズンは地元の越和宏選手が出
場するスケルトンの世界選手権がありますし、スペシャルオリンピ
ックスも2005年に開催される予定です。
スポーツだけではなく、いろいろな国際イベントが繰り広げられ
るようになり、長野は益々楽しくなりますよ。
オリンピック・パラリンピックの時に育ったボランティアの存在、
そして市民のホスピタリティーの心、これら、オリンピックにより
培われた無形の資産は確実に根付いていることを感じさせてくれ
ます。